二 久遠明日子の語れる(六)
「仕事相手との晩餐会に同席してほしい」
久遠からそう頼まれたのは、まだ残暑も残る九月初旬のこと。久遠商会が新規で取り引きすることになった会社の社長から招待されたそうだ。
「わたくしも、ですか」
「ああ。西洋人の集まりには夫婦同伴が原則だからな」
「せ……西洋、人……っ!?」
「なんだ」
書斎での会話だった。久遠は西洋椅子に腰かけて、煙草に火をつけ私を見やる。
「貴様、まさか西洋人が怖いのか」
軽んじるような薄い笑みに、「まさか」と返す。
「女学校にも西洋人の先生はおりましたし、わたくし、英語の成績は甲でしたのよ」
嘘である。
ほんとうは甲乙丙丁の四段階で、ずっと丁だった……。国語の綴り方は甲だったのだけど。あの、ミミズが胃痙攣を起こしたような西洋文字は、どうも自分にはあわない。だがそんなこと、久遠には言えない。
「ほう、それは頼もしい。これからの世は女子にも学問が必要だからな」
煙草の灰を灰皿に落とし、久遠は言う。気のせいか、私の嘘を見透かしているように見えなくもなかったが。だけど私は、ふ、と鼻で笑って大見得を切る。
「晩餐会でも舞踏会でも、なんなりお供いたしましょう」
言いながらすでに後悔していた。
なぜ自分はあの男を前にすると、強気にでてしまうのだろう。できません、無理です、と言いたくない。弱い部分を見せたくない。後々になって後悔するかもしれないと頭では分かっていても、気持ちが反発してしまう。
晩餐会までの間、嫁入り道具の入っている行李から英語の教科書を引っ張りだし、復習に励んだ。『ご機嫌いかが?』『これはペンです』『リンゴが十個あります』といった定型文を詰め込むものの、晩餐会で『これはペンです』と言う状況なんて発生するだろうか……。
と、ともあれ、できる限りのことはした。テーブルマナーの教本も読んだし、踵の高い靴で歩く練習もした。もし今夜へまをしでかして久遠に恥をかかせることになったら……そのときはそのときだ。
車の後部座席で隣の久遠に、
「まさか今夜の晩餐会も、集まるのは実は血魅たち、ではないでしょうね」
なめらかにハンドルを繰る運転手に聞こえないよう、声を落としてささやく。久遠は「そうだな。一匹くらいは紛れ込んでいるかもな」と、人を食ったような答えを返す。
「案ずるな。何か起きたら貴様は俺が守ってやる」
前にも同じようなことを言われた。
「ですから、自分の身くらい自分で守ります」
同じように言い返すと、なにがおかしいのか、久遠は唇に笑みをのせている。
会場は、帝都きっての商業都市・金座の高級クラブを改装したプライベートサロンだった。
なんと招待客のほとんどは西洋人で、日本人の、しかも婦人は私しかいなかった。否応なしに周囲の視線が集まる。お、おじけるな。この人たちは目の色、肌の色が異なるだけで私と同じ人間だ。今、腕を組んでいるこの男とは――血魅とは違う。
そう自分に言い聞かせ、鏡の前で練習してきた貴婦人的な微笑を浮かべる。マナー教本に書かれてあった。『パーティーなどでどう振る舞えば分からないときは、とりあえず微笑みましょう』と。そうしておけば好感を与えるから、と。
桃みたいに血色のいい、銀髪の中年男性がやってくる。縦にも横にも幅があり、いかにも西欧人という体格だ。
「I've been waiting, Byakuya. Won't you introduce me to this beautiful woman?(待っていたよ、白夜。こちらの美しい女性を私に紹介してくれないのかい?)」
久遠は、私に見せたことのないにこやかな笑顔で応じる。
「Of course, Mr. Trier. This is my wife, Asuko.(もちろんです。トリアーさん。彼女は私の妻、明日子です)」
私は貴婦人スマイルを保ちつつ、自己紹介する。
「Nice to meet you, Mr. Trier. My name is Asuko. Thank you so much for inviting us this evening.(はじめまして、トリアーさん。明日子と申します。今宵はお招きくださって誠にありがとうございます)」
え。
なに、今の言葉は? いったい誰がしゃべったの? 私? ど、どうしてあんなに流ちょうに口から英語がでてきたの? 『これはペンです』が、精いっぱいのはずなのに。
微笑を忘れて目も口も丸くすると、久遠が肩に手を添える。トリアー氏に、妻のドレスと髪飾りは弊社で扱っているものです、と説明する。
「着物に使う高級布地で仕立てたドレスに、一流の刺繍作家が図案から手がけた和柄の刺繍が特徴です。どこかオリエンタルな雰囲気は、西洋の婦人にも好まれるのではないかと……」
トリアー氏は、商売人の目つきとなってまじまじと私を眺め、目があうとにっこり、する。私は敵ではありませんよ、と伝えるような笑み。日本人の笑い方とは異なる種類の笑顔だ。
「なるほど。あなたは白夜の妻であり、久遠商会専属のモデルでもあるのですね」
「お……おそれいります」
ちなみに、これらの会話も英語でなされた。日本語を聞き取るように聞き取れたし、しゃべることができた。「晩餐会がはじまるまで、しばしお待ちを」
私の手の甲に接吻すると、トリアー氏は他の客人たちにも挨拶をしにいった。
「上出来だったぞ。さすが英語が甲なだけあるな」
ぬけぬけとそう言ってくる久遠に、「どういうこと? 魔法でもかけたの?」と問うと、
「魔法ではなく印の影響だ」
印? あの、私に転写した?
「印はなかなか便利なものでな。印を分かちあう者同士は、能力も分かちあう。たとえば知性や運動能力などを」
「じゃ、じゃあ、さっき私が英語をしゃべれたのは……」
久遠はうなずくと、また違う言語を口にする。鼻にかかった、なめらかな響きの言葉だ。
「Non seulement vous parlez anglais, mais vous pouvez également parler français.」
意味は、“英語だけでなく、貴様はフランス語も話せるぞ”。これまた日本語みたいに耳のなかに流れ込んだ。
す、すごい。まじめに外国語を学んでいる方がたに対して申し訳なくなってしまうほど……すごい。久遠は給仕から食前酒のグラスを二つ受けとると、片方を私に手渡す。
「今の御仁が今日の
トリアー氏は北欧を拠点としている貿易商で、主に家具や室内装飾品を扱っているとのこと。久遠商会を通してこの国の書画や骨董、ご婦人用のキモノなどを仕入れたいのだそう。
久遠もまた、トリアー氏から家具製品を輸入するつもりだとか。北欧製の椅子や寝台、書きもの机などは上流階級に人気があるらしい。
「この国はこれから、どんどん西洋化が進んでいくぞ。人びとは洋服を着るようになり、肉を食い、セメントの家に住むだろう。あと百年もしたら、着物など着ている日本人はいなくなるぞ」
「まさか」
さすがにそれはないだろう、と私が首をふると、
「まあ見てろ。俺の読みは外れんのだ」
久遠は自信ありげに笑う。ひねったような、この男独特の笑い方だ。
「百年経ったらわたくしは死んでおりますから。西洋化した景色を見なくてすんでさいわいですわ」
すると久遠は、やや間を空けて、「そうだな」とつぶやく。
「そうだったな。忘れてた」
あれ、と思った。いつもだったら私が何か言うと、口の達者なこの男のこと、すかさず皮肉の一つ二つ飛ばしてくるのに。
そのまま互いに黙して食前酒を味わう。食事の支度が整ったとの知らせが届き、次の間で晩餐会がはじまる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます