三文作家と押しかけ読者③

 適度に身体を疲れさせなければ、寝つきが悪くなる。寝つきが悪いと、嫌な夢を見る。

 だから、アリーは散歩を日課にしていたのだけれど、最近は、自分の家に帰るのも気が重い日々が続いていた。


「ただいま帰りましたぁ……」


 とはいっても、いつまでもぶらぶらと外で過ごして時間を潰すわけにはいかないもので。

 散歩を終えたアリーが下宿の玄関をそろりと抜けて、抜き足差し足で進むと、階段の手前の部屋からシェルマン夫人が顔を出した。


「おや、アートンさん。坊ちゃんがお待ちだよ」

「……ちょっと用を思い出したので、今から出てきます。今日はもう戻りませんので」

「待っとくれ! 坊ちゃんは『顔を見るまで帰らない』って! 会っておやりよ、健気な子じゃないか!」

「いつのまに、ここまで買収されたの!?」


 数年間に亘る大家と店子の信頼関係も、金の前では無力だ。いや、シェルマン夫人は、ちょくちょく家賃を滞納する店子に元から信など置いていないかもしれない。ならば尚更、金払いのいい来客を優先するのも当然だ。

 言い争ったところで勝ち目は全く無いし、何より争っている暇が無い。こうしてここに留まっている間にも――。


「やっと帰ってきたか! 見てくれ! 今日こそ、君が納得する証拠を持ってきた……あっ、逃げたなっ!」


 争う声を耳敏く聞きつけた黒髪の男の姿を階上に見つけるや否や、アリーは一目散に逃げ出した。


『見てくれ! 二人が相思相愛だった証拠を持ってきたっ!』


 部屋での待ち伏せに遭ったあの日を契機に、リックは様々な品を手にして、小汚い下宿を訪れるようになった。

 彼が最初に持ってきたのは、少し時代を感じさせるデザインの指輪だった。


『これは、祖父が祖母に求婚したときに贈った指輪だ。公爵家に代々伝わる結婚指輪は別にあるんだが、祖父は自分の瞳の色に似た石をつけた指輪を祖母に贈って、祖母はこれを肌身離さず身につけていて……』

『いや、そんなことを言われましても……』


 亡き公爵のどろどろと重たい執着がこもっていそうな指輪が存在することは理解した。それはそうだとしても――。


『あのですね、そのことから、二人が両想いだったとは言えません』

『えっ?』

『レジナルド様がアニタ様のことをめちゃくちゃ好きだったことは、それはもう、そうなんでしょうけれど、それだけでは、アニタ様の方の気持ちは何も分からないでしょう』

『だ、だがっ! 祖母もこれを常に身につけていたわけだから!』

『レジナルド様の機嫌を取るために打算的に身につけていただけだったかもしれないし、そこまで嫌な見方はしないにしても、単純に指輪のデザインが好みだったから身につけていたからとか……『レジナルド様のことが好きだから』以外の理由なんて、いくらでも思い浮かびますが』

『くっ、わかった! 明日は、もっと確実な証拠を持ってくるからな! 君は首を洗って待っていろ!』


 アリーが淡々と反論すると、リックは機嫌を損ねたらしい。肩を怒らせながらどすどすと床板を踏み鳴らし、部屋を出て行ってしまった。

 かなり怒っていたようだが……そうか、明日も部屋に来るつもりなのか。どうせ怒るなら『不愉快だ、二度と顔も見たくない』と思ってくれればいいものを。


『引っ越したい、けれど……逃げたら、処刑されるのかしら』


 リックの『首を洗って待っていろ』という捨て台詞を思い浮かべながら、アリーは部屋の真ん中に立ち尽くした。


 それから一ヶ月もの間、リックはアリーの部屋に日参していた。

 古びた下宿に豪華な馬車で乗りつけては、下町に不似合いなお坊ちゃんがいそいそと入っていくのだから、目撃した近隣住民から怪しまれるのも無理はない。

 今やアリーは野次馬たちから好奇の視線を一身に向けられていて、このままでは『取材』にも支障が出るだろう。


「ほんとに勘弁して……」


 アリーは、橋の欄干に肘をつき、深々とため息を吐いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る