第2話 夏の種、冬の灯

夏が本気を出しはじめたころ、ベランダのバジルが花をつけた。白い小さな唇みたいな花が、指先で触れると粉砂糖のようにほどけていく。花を咲かせると葉が硬くなるから、摘芯するといいらしいと本に書いてあった。わたしたちは、ハサミの代わりに爪の腹でそっと摘んだ。指に残った青い匂いは、朝の光より早く目を覚まさせた。捨てるのは惜しくて、水の入ったグラスに挿して台所に置くと、台所が急に森になった。花がこぼした種を乾かして、小さな封筒に入れる。封筒には日にちを書いた。日付を書くだけで、未来にしるしがつくようで嬉しかった。

町内会の夏祭りに、二人で浴衣ではなくTシャツで出かけた。屋台の光はいつ見ても、知らないはずの幼さを胸のどこかから呼び出す。焼きそばのソースと、綿飴の砂糖の香りが混ざって、夜の空気が甘じょっぱくなる。金魚すくいの水面に、輪っかがゆらゆら重なり合い、あなたは「今の音、閉じる音にしたいな」と言った。わたしたちは連れて帰れないものを、目で連れて帰るのが上手くなった。風鈴の屋台で、透明な球に藍色の絵付けがあるものを選ぶ。風鈴は玄関の鈴と向かい合う位置に吊り下げた。外の風が鳴らす音と、出入りが鳴らす音。二つの鈴は、家の内側と外側の境目で、ひそかに挨拶をしているようだった。

仕事の時間が、少しずれた。あなたの部署が変わり、帰りが遅くなる日が増えた。冷蔵庫のメモには、「おかえりの合図」の下に「遅い日のひらがな」と書き足した。遅い日は、わたしはひらがなで「おかえり」と言う、と決めた。ひらがなのほうが、柔らかい。あなたは、それにカタカナで「タダイマ」と返して笑った。言葉の形に気持ちが住むことを、わたしたちは知っている。待つ時間は、スープの火加減で測った。弱火で、ぐつぐつをぎりぎり手前にする。待っている間に、バジルの種の封筒を撫でる。未来のざらざらした感触が、掌にうつる。

秋に入ると、八百屋の「へんてこ」は彩りを増した。でこぼこの南瓜、星の形に欠けたしいたけ、細長すぎる大根。店主は「きょうの一等へんてこ」をわざわざ裏から持ってくるようになった。「誰かに選ばれたがってる野菜がいるんだよ」と言う。持ち帰ったへんてこを、青い皿の真ん中に置く。それは毎回、舞台に立たせるみたいで可笑しかった。青い皿は、わたしたちの家の中心にいる。けれどある日、皿は水の中で小さく音を立てた。食器を洗っていて、手が滑ったのだ。縁が、星の欠片みたいに欠けた。わたしは、心臓の中で同じ形の欠けを感じた。あなたは、わたしより早く「大丈夫」と言い、そして少し遅れて「金継ぎ、行こう」と言った。

雨の日曜日、二人で金継ぎ教室に出かけた。講師のひとは、欠けを撫でる手の動きが、動物を撫でる時と同じだった。漆は時間を食べる、とその人は言った。「すぐに直るものは、すぐに忘れられるからね」とも言った。わたしたちは、不器用な手で欠けに漆を塗り、乾くのを待った。何度も、待った。待つあいだに、缶に入った金粉が、遠い星座の砂みたいにきらめいた。最後に金粉をふわりとのせたとき、皿の縁に細い稲妻が走ったみたいだった。金の線は、傷を隠すのではなく、傷の位置を忘れないための光だった。皿は新しくもあり、古くもあった。テーブルに戻した初日、青い皿は少し誇らしげに光って見えた。わたしたちは、その金の線に指を当てて「ここを通った」と心の中で報告し合った。

冬は、足首から忍び込んだ。床に直接座る生活は、足の裏の縞模様に冷えを記す。わたしたちはついに、小さなこたつを迎えることにした。届いた箱を開けた瞬間から、部屋に島ができた。毛布を潜ると、島の内側だけ季節が遅れる。こたつの天板は、青い皿を乗せると音が変わる。カン、と軽い、乾いた響き。これが冬の「今日の音」になった。こたつの中で足がぶつかるたび、「交通ルール」を作った。右足優先、長時間の占有禁止、温度調整は申請制。ふざけたルールを書いた紙を、冷蔵庫のメモの横に貼ると、毎晩の笑いの種になった。

暖房の温度設定で、小さな波風は立った。あなたは薄手のセーターで頑張る派、わたしは靴下を二重にしてもまだ寒い派。お互いの「ちょうどいい」が少しずれている。わたしたちは、冷蔵庫に「体感気温メーター」を描いた。笑顔から歯を食いしばる顔までの絵を五段階。帰ってきたら、今日の顔に丸をつける。丸の位置が離れた日は、こたつの中で足先を寄せる時間を長くした。温度の合意は、ぬくもりの分け合いで決着がついた。

年の瀬が近づくと、台所で黒豆を煮た。あなたの母が教えてくれた「しわ寄せないコツ」をメモにして、冷蔵庫の端に貼った。弱火、落し蓋、気長。三つの言葉は、ほとんどわたしたちの生活の標語みたいだ。豆がふっくらと膨らむのを見ながら、「あとで読む」の瓶のほこりをふいた。瓶の中の小さく折られた紙はもう目に見えて増えていて、ときどき瓶口に頬を当てて、紙の角が当たる冷たさを確かめた。「七年目まで、あと何枚入るかな」とあなたが言った。数えるより、毎日一枚という約束が、日付のかわりになる。

年が明けてすぐ、ベランダの土を入れ替えた。軍手をはめて、土の匂いを吸い込むと、鼻の奥が少し甘くなる。ホームセンターで買ってきた培養土の袋に「ふかふかです」と書いてあって、それだけで信頼できた。バジルの横に、ローズマリーとミントの苗も並べる。名札の割り箸が一本ずつ増えた。わたしたちは、その割り箸の字の違いで、世話の手の違いを見分けられるようになった。ミントは増えすぎる、と誰かが言っていた。増えたらどうしよう、と言いながら、増えるものの心配はどこか嬉しい。

駅のほうへ歩く道で、小さなパン屋が開店した。朝の湯気の時間に合わせるように早くに開く。店のガラスに描かれたチョークのパンの絵が、雨の日に少し滲んで、絵の中から湯気が立っているみたいに見えた。青い皿にのせるパンを選ぶことは、皿のために花を選ぶことに似ていた。皿の青に似合う焦げ色を探す。家に帰って、皿にパンを置くと、やっぱり低い音が鳴る。音を聞くたびに、皿が生き物に思えてくる。金の線の部分は、音が少しだけ澄んでいる気がした。

春がまた来た。カーテンは、去年よりも軽く揺れて見えた。縫い目の不揃いに、わたしたちの一年が糸のように巻きついている。窓辺の光の粒が増えたのは、たぶん冬のあいだにわたしたちの目が光の見方を覚えたからだ。新しい芽が土から顔を出すたび、わたしたちは小さく拍手した。ベランダの端に、小さなテーブルを置いた。二人がカップを置けるだけの。朝、そこに湯気を連れて行く。風鈴が鳴って、鈴が鳴って、湯気が立ちのぼる。音と透明なものたちが重なって、朝が二層、三層になる。

ふとしたある晩、停電が起きた。窓の外のマンションの部屋も、一斉に暗くなった。わたしたちは用意していた小さなロウソクに火を灯した。火は部屋の形を縮める。壁の角が近くなり、声が低くなる。冷蔵庫のモーターが黙ると、家の心臓が一瞬止まったみたいで少し怖かったけど、すぐに静かさに耳がなじんだ。「きょうを閉じる音、今日はないね」とわたしが言うと、あなたは「じゃあ、灯す音にしよう」とマッチを擦った。シュッという音が、閉じる音に代わる。ロウソクの脇で、「あとで読む」の瓶に一枚、紙を足した。暗闇の中で折った紙は、いつもより角が合わない。合わない角も、あとで読めばきっと可笑しい。

春を越えたら、一周年がやって来た。記念日のために、青い皿を真ん中より少しだけ中央寄りに置いた。中央のさらに中央。玉ねぎのスープを昨日から仕込んで、パン屋の一番焼きたてのバゲットを、浴びるくらいの朝日に連れて帰る。ベランダのバジルは「去年の子」の種から出た双葉が三つ。わたしたちは、その三つをそれぞれ「一」「ね」「ん」と呼んだ。三つだから、ちょうどよかった。スープの湯気の中で、あなたが目を細める。未来の形を探す目は、去年よりも少し自信を持っているように見えた。

わたしたちは、写真を撮らない。それでもこの一年を、暮らしの位置が覚えている。バジルの名札の角の白い傷、カーテンの裾の糸のはみ出し、こたつの天板の小さな輪染み、玄関の鈴の紐のほつれ、そして青い皿の金の線。忘れないための線は、わたしたちの中にも一本ずつ増えた。怒ったときの声の出し方、謝るときの手の置き方、待つときの足の指の丸め方。そういう細かい位置を、七年かけて覚えていくのだろう。覚えることは愛着に似ている、の続きとして、覚え続けることは、約束に似ている。

夜、台所の電気を一緒に消して、暗闇の中で手を探す。一年前と同じように、見つかった瞬間、心の奥の小さな鈴が鳴る。けれど今年は、その音に重なるように、風鈴のかすかな余韻が窓から滑り込んできた。わたしたちは、二つの鈴が重なる瞬間を、わたしたちの一年の終わりと始まりのしるしにした。きっと、二年目も、三年目も、鈴は重なる。重なるように暮らす。重なるように置く。重なるように、言う。

そしてまた朝が来る。ケトルの口から白い糸が立ちのぼり、青い皿が光を受けて深さを増す。「七年目に開封」と書かれた瓶は、まだ軽い。でも、軽さは希望の反対ではない。空いている分だけ、入る場所がある。わたしたちは、そこに日々を入れ始めた。種を入れるみたいに、指先で。ひと粒ずつ。やさしく。強く。——

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