7月2日 辻桃果は嫉妬する
恋に落ちる時は突然で、前触れなんてない。
少なくともわたしはそうだった。
あれは去年の秋のこと。美化委員で花壇に水やり中、野球をしているクラスメイトの姿をぼんやり目で追っていた。ほとんど話したことのない男子。試合が終わる頃には――終わった後もずっと、彼のことで頭がいっぱいになっていた。体がぽかぽかして、心臓がドキドキしていた。
松岡
彼のことが好きだ。
橋本
「
と心配そうに言われてしまい、実は……と打ち明けたのだ。
「へえ、いいね、すてきだね」
「でもわたし、運動できないし、太ってるし、接点ないから……」
わたしは下を向く。それに勇気もないし話もうまくない。どうしたらいいかわからない。もっと仲良くなりたい気もするし、近づきすぎて引かれるくらいなら、こうして見ているだけの方がいい気もする。
けれど彼を好きになってから、世界の色が、空気が全然違って見える。
それはわたしの心を鮮やかにする。
四月になって、心配していたことが起こってしまった。
原
原さんはクラス一の美少女だ。モデルみたいに長い足、スベスベの肌、長いまつ毛に大きな目。リレーはいつもアンカーで、マラソン大会はいつも一位。同性から見てもとてもすてきな女性だと思う。そして、クールというか、まわりとあまり
彼女はもともと運動が得意な同士、松岡くんとよく話していた。わたしは何もできずにそれを眺めていた。
正直、お似合いの二人なのだ。
悔しいことに。
五年生の終わり頃、わたしは聞いてしまった。
原さんと、竹内
「……だれにも内緒だよ?わたしもだれにも言うつもりなかったんだから」
竹内さんがちょっと困ったように言う。原さんは、
「わかってる。それにわたしも、松岡くんが好きだから、おあいこね」
とさらりと言った。
その返しがあまりに自然すぎて、わたしは一瞬理解に時間がかかった。
竹内さんもすこしおどろいたようで、
「そうなんだ、全然わからなかった」
と言う。原さんは少し笑いを含んだ声で、
「よかった。あまりバレバレじゃ恥ずかしいもんね。わたしも本人に言うつもりはないから」
と言う。
「そうなの?」
「うん、今は運動の方が大事、来年は陸上が始まるから、長距離出たいし」
「出れるよ
でももったいない気もするな、と竹内さんは言う。二人お似合いに見えるのに、と。
二人お似合い。
やっぱりほかの人から見てもそうなんだ。
原さんが今回体育委員になったのは偶然とは思えない。
いくら口では気持ちを伝えるつもりはないと言っても、それでもやっぱりそばにいたいとか、チャンスはものにしたいとか思うのが人間だと思う。
少なくともわたしはそうだ。見ているだけの方がいいかなと思うことはあっても、やっぱりチャンスはほしい。
だから、自分に自信がなくて、運動なんて苦手だからと、体育委員を選ぼうと思わなかった時点でわたしは負けたのだと思う。
「松岡くん」
話したのは四月始めの一度きりだ。
たまたまグループ学習で一時間だけ、一緒になったのだ。
「松岡くん、足速いよねえ、すごい」
なにか気の利いたことを言わなきゃと思うのに、それくらいしか言えなかった。
いつも見てるよ。
カッコいいと思ってるよ。
すごく努力してるよね。
たくさん言いたいことが心のなかで渦を巻くのに。
「ああ……」
松岡くんはぶっきらぼうに軽くうなずき、話は終わってしまった。
自分が嫌いだ。
大した話もできない、好きな人にアプローチもできない自分が。
それでいて他人に
思っても、悔しい気持ちは止まらない。
体育委員会の後に談笑している二人を見かけるようになり、わたしの
同じ体育委員の瀬尾くんが、松岡くんと仲良くしてくれればいいのに、瀬尾くんは竹内さんとばかり話していて、全然松岡くんに絡んでくれない。
あー、あの子がいなければいいのに。
せめて松岡くんの目の前に、あんな完璧な、美人で運動神経抜群な同級生がいなければよかったのに。
原
彼女がいる限り、わたしは恋愛の土俵にも上がることができない。
とはいえ、わたしに誰かをどうにかしようという勇気や度胸があるはずもなく、だからそれはほんの出来心だった。
「こないだの学級新聞、攻めてたねえ」
何気なく
「
佐々木
「そうなんだ、
わたしが聞くと、
「うん、あるんじゃないかと思うよ」
と言った。
ちょっと興味がわいてきた。
そんな折に――
「あれ、原のやつ、タオル忘れてる」
床に落ちていたタオルを松岡くんが拾い上げたのを、わたしは見てしまった。
放課後の教室。日が少し傾いてきている。
ほかに誰もいなかった。
「あ、それなら――」
いつもは動かない口が勝手に動いた。
「わたし届けとくよ」
「いいのか?助かる。オレこの後バスケだし」
そう言ってなんの疑いもなく、松岡くんはタオルを投げわたしてきた。あわてて受け取る。
原さんがいつも首にかけているタオルだ。汗でしっとりと湿っている。なのにちっともいやな
「あ、うん、わたしね――」
言葉を続けようとして顔を上げると、もう松岡くんは教室を出ていくところだった。
一人残された教室で自問する。
わたしはこれをどうするつもりなんだろう。
何も考えていなかった。
ただなんとなく、このまま彼女のタオルを、松岡くんに持って行かせたくないと思ったのだ。
恋って怖いよ、とイトコのお姉さんが言っていた。
恋は人を変えてしまうと。
職場の女性が、男性に二股をかけられていたことが発覚し、ナイフで相手の女性を刺したらしい。軽い怪我で、ニュースにもならなかったみたいだけど。
イトコの話ではその女性はイトコの同期で、おとなしく優しく、怖い話が苦手な、普通の女性だったらしい。
「恋って怖いよねー。自分でもコントロールつかなくなるし、思わぬ行動に出ちゃうんだよ。あたしも昔は男を巡って、殴り合いの大げんかをしたことがあるもの、彼女のこと責めれないよ」
イトコはうんうんとうなずきながら繰り返した。
恋ってすてきなもののようだけど、怖いものなのかもしれないとわたしは思った。
恋って怖いものかもしれない。
わたしは原さんのタオルを手に、教室で一人考える。ウジウジして行動力のまるでないわたしが、松岡くんから原さんのタオルをとってしまったのだから。
そして今も思っている。このタオルを燃やしてしまいたいと。原さんがいなくなればいいのにと。
屋上が閉鎖されててよかった。屋上が開いてたら、わたしはきっと、呪いをかけに行っていたと思う。原さんの汗のしみたこのタオルを持って。
屋上が閉鎖されてなければよかった。
あの子のあのきれいな顔が、スラリと伸びた足が、この世界から、松岡くんの前からなくなってしまえばいいのに。
ふう、と息を吐いたその時、
「あれっ」
ガラリと戸が開く音と同時に声がして、わたしの心臓は飛び上がる。
原
「辻さん。そのタオル、拾ってくれたの?ありがとう」
人の気も知らないで彼女は言う。
「あ……うん、タオル取りにきたの?」
わたしはタオルを原さんにわたす。こんなふうに簡単に、わたしの醜い心も、この手から離れていけばいいのに。
「ううん、タオルのことは忘れてたの、実は」
原さんはきれいな顔で笑う。
「ここに来たのはね、
「えっ――」
わたしは息をのむ。竹内
「うん。わたしね……」
原さんは少し迷ったあと、教えてくれた。
「
「屋上の鍵が壊れてたこと??」
なんの話?
「屋上の鍵は壊れてて、誰でも出入りできる状態だったんだよ」
初耳だ。なんとなく屋上って当然、鍵がかかってて生徒は出入りできないものだと思っていた。
「わたしがそれを教えなければ、
原さんは竹内さんの机をなでる。持ち主のいなくなった机を。
わたしは思わず言った。
「そんなことない。は、原さんは関係ない。鍵が壊れてるって言っただけで、台風の日に屋上に出るなんて誰も思わないもの。きっとどうしても屋上に行きたい理由があったのよ」
原さんはわたしを見て少し微笑んだ。
「うん、ありがとう、そうだよね、そう思う、わたしも」
そして、でも、と首をかしげる。
「でも、それならその理由ってなんだったんだろうね」
「さあ……」
わたしに聞かれても困る。でも原さんは、わたしに聞いてるのではないのかもしれなかった。ひとりごとのように続ける。
「やっぱり秋本さんかなぁ、秋本さんが呪いをかけたのかな。秋本さんには証拠もなしに悪いけど、でも
「は、原さん?」
「ヨシダくんはいじめられっ子や弱者の味方ではないのかな?呪いをかけた人も最終的には殺してしまう?だから今まで誰も呪いをかけてこなかった?」
「原さん、あの……」
「だってね」原さんはわたしを見据える。長いまつ毛がまばたきするたび揺れる。「だってやっぱり、おかしいの。
「……じゃあ、」わたしは息をのむ。「じゃあ原さんは、呪いを信じるの?」
「信じるというか、その方が説明がつくと思う」原さんはうなずく。「ただ、本当に呪いの正体がヨシダくんって人なのかは――」
そのとき、
「おうい」
教室の外から声がした。トモセン――大友先生の声が。
「原さん?まだ残ってたの?入っていいかい?」
「あ、どうぞ」
原さんは振り返りつつ、なんの疑いもなく答えた。
わたしは――出遅れた。
教室の入り口に背を向けていた原さんには見えなかったみたいだけど、わたしには見えていたのに。
教室の扉、ガラス越しに、どう見ても人間ではない巨大な影が。
「あ――」
わたしが口を開くのと、扉が開くのが同時だった。
据えた
原さんは振り向いたまま、固まった。
赤黒く濡れそぼった太い毛がたくさん。
その真ん中にぱかっと開いた、大きな口のようなもの。
「いただきます」
ぐじゃっ、という音とともに、
目の前の原さんの、首から上がなくなった。
一呼吸おいて、血が吹き出す。原さんの
わたしは悲鳴をあげて、机をなぎ倒しながら後ろにあとずさった。
なに、これ。なにこれ。なにこれ?
なんで?
なんで原さんが?
だってこれじゃ、まるで――
赤黒い毛のかたまりは、べちゃり、と音を立て、わたしに近づいてくる。
わたしは思い出す。さっきまで、原さんが来るまで考えていたこと。
――あの子のあのきれいな顔が、スラリと伸びた足が、この世界から、松岡くんの前からなくなってしまえばいいのに――
「うそ」
手に持ってたのは原さんのタオル。原さんの汗の――体液の――体の一部の染み込んだタオル。
教室は南西。校舎の一番西のはじっこ。
でも、ここは屋上じゃない。わたしは一週間も祈ってない。なのに、これじゃまるで、
「うそだ……」
涙があふれる。
この化け物が、ヨシダくんなの?
わたしのせいなの?
わたしが呪いをかけてしまったの?
ちがう、ちがうちがう、そんなつもりじゃなかった。そんなつもりじゃ。わたしはただ。
ぐじゃり。
視界が真っ暗になり、わたしは意識を手放した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます