四
血溜まりができるほど血が噴き出れば、普通であったらまず激痛で立っていられなくなり、失血すれば死に至る。
だというのに、男はしっかりとした足取りで、ただ剣を振るう九郎を不思議そうな顔で眺めるのだ。
男はあっさりと言う。
「私は不老ではないだけでねえ。不死の研究には既に成功しているんだよ。ほら」
そう言いながら、男は着ていたシャツの留め具を外し、ずいっと広げてみせた。
それを見た途端に、九郎は開いた口が塞がらなくなった。
致命傷ともいうべき赤い一閃がたしかに刻まれているにもかかわらず、その線は時間を追うごとにどんどん細く薄くなっていっているのだ。こんなに傷の治りが早いことなんてありえない。
「な、ぜ……どうして」
「錬金術の研究の成果だよ。しかしどういう理屈だから、不老の研究はいつまで経っても成功しなくてね。仕方がないからホムンクルスの体をつくることにしたのさ」
月子が先程訴えていた「おとうさま、死なないの」の意味をやっと理解できた。
たしかにこれだけ傷の治りが早く、痛みに対して鈍過ぎる男、死なないどころか倒すことも至難の業だ。
歴史に名を遺したような剣客だったらいざ知らず、九郎はしがない鉄道警備隊員であり、彼の剣はあくまで人を拘束するため、抵抗する者を取り押さえるためのものであり、かつては使用されていたとされる殺人剣は使えない。
傷が治る暇なく剣劇を与え続けるなど、彼の腕では不可能なのだ。そんなことをすれば、九郎のほうが疲弊して、倒れる。それでは月子を助け出すことだってできやしない。
九郎は太陽を見たら、太陽は九郎に言われた「月子さんを連れて逃げろ」と男に言われた「月子とこの場に残って彼女を赤い水に浸せ」の真逆の命令に混乱したのか、月子を掴んだまま立ち尽くしている。
九郎は「月子さん!」と叫んだ。
本来ならば、彼女にとっての「おとうさん」に聞かせるべき話でないが、今は距離がある上に緊急事態だ、男にも話の内容を聞かれても、仕方がない。
「はい……」
「こいつを……この男を、どうやったら倒せますか!?」
闇雲過ぎて必死な懇願だった。
頼むから死んでくれと思ってはいるものの、今のままじゃまともな致命傷すら与えられない。
月子は太陽を見ると、太陽にコテンと首を傾げて尋ねる。
「おとうさまは不死ね? 不老でないだけで」
「うー」
太陽の声は口調こそ赤子なれども、大きさのせいで腹に響く。
九郎はその間もなんとか男を剣で突き刺すが、抉っても刺しても斬っても塞がってしまい、ボロボロになるのは服ばかりで、ちっとも疲れも焦りも見せない。
それどころか、剣を抜く、剣を戻す、剣で刺す。その動作のせいで、だんだん九郎のほうが疲れが滲んできていた。人の肉は重くて難しく、その動作がどんどん九郎の体力を削っていくのだ。
いつもの影狼討伐のときは疲労が溜まってきていても、死骸が積まれ、いつかは終わるという予測を立てられたのだから、そこまで体が疲労困憊になることはなかった。
しかし今回は違う。
いつまで経っても倒れないせいで、精神的疲労が払拭されない。
ただでさえ体の重い動作の連続なのだ。精神まで蝕まれてしまったら、心身に疲労が蓄積されていって、それが九郎の動作を鈍く重くしていっていたのだ。
九郎と月子が会話をしていても、男は嘲笑う。
「月子、太陽。ふたりの会話は筒抜けだよ?」
「そうですね、おとうさまは万能ですから。隠しても仕方がないと思うんです。ですけれど、おとうさまは不死なだけであって、不老ではありません」
月子のきっぱりとした口調に、九郎は「うん?」となにかが引っかかった。
そういえば。幻想小説や怪奇小説の中で、遺体を椅子の中に隠す話があった。日常生活に使うものの中に入れることで遺体を隠すというものだった。それはただの殺人の隠蔽の話だったが。
男は死なない。だが年は取る。これはなにか重要なヒントではないだろうか。
九郎は必死に考える。
(男を殺すのは……無理だ。俺の太刀筋の速さでは、次の傷を付ける前にもう傷は治るし、こちらが疲れるだけだ。だが……死なない人間は殺せないんだから、もう出られない場所に閉じ込めるしかないのでは?)
殺すということは、とどめを刺すことだ。
疲労困憊の中、それでも月子の奪還のために必死で体を動かしているという状態の九郎では、男の息の根を止めるのは不可能に近い……そもそも殺せないんだったら、無限に傷を付け続けて動かなくするしかないのだが、それはどれだけ剣の達人であったとしても無理がある。
だが、殺せない以上は男を金輪際身動きできないようにする以外、方法はないように思える。
問題は、疲労困憊状態の九郎では、もうできることは限られているということだった。
コポコポと、赤い水から気泡が立つ。ふと九郎は気付いた。
ここから次から次へと影狼が生まれているが、影狼自体は赤い水に浸かっていてもどうこうなる訳ではないらしい。
延々と命を生み出す赤い水だが、人間には猛毒のようだ。だからこそ、男は九郎の足止めをした……これは人間が溶けたらまずいという倫理観の問題ではなく、何度も調整を重ね続けた赤い水の成分に異物を混ぜたくないという、あの男の学者魂から来るもののように考えられる。
で、結局。人体にとって、あの赤い水はどうなるものなのか。
「なあ、あんた」
「なんだい? 諦めて大人しく月子を置いて帰ってくれる気になったかい?」
「そんな訳があるか。月子さんは連れて帰ります。あの赤い水はなんだ?」
「ああ……あれは錬金術にとって重要なものさ」
どうもこの男は、錬金術師として語りたくて仕方ない性分らしく、尋ねたら勝手にペラペラとしゃべりはじめる。
自己顕示欲の塊の男は、行動さえ読み取れば、あとは楽なのだ。
たとえ頭が人よりもいい男であったとしても、強欲は行動が読み取りやすいのだから。
「あれには人間の破片だけでなく、豚、猿、果物……生きとし生けるもののかけらを混ぜ込んで更に……」
「端的に、これはなにをするものなんだ?」
「結論だけ求めるのは素人のすることだがね、まあ君は仕方があるまいよ。あれが命を育み、ホムンクルスを産み出すのさ」
「ふーん……あの赤ん坊は赤い水に浸かっているが、なんの影響もないんだな?」
「生きている者には猛毒だがね、ホムンクルスにはなんの影響もないよ。せいぜい記憶が蒸発するだけさ」
月子の記憶を洗浄しようとする方法は、この赤い水に漬け込むという方法だったらしい。血の池地獄のような装いのそれは、使えばまさしくこの世に地獄をもたらす。
が、今の九郎にとっては僥倖だった。
「ふーん……ありがとう、なっ!」
話を聞いてから、九郎は剣を捨てると、一気に男に体当たりした。それに月子が悲鳴を上げる。
「くろさんっ!!」
九郎は体当たりをして、男共々赤い水の中に落ちたのである。
途端に詰襟の下に、じわじわと赤い水が染み込んできて、それが九郎に激痛をもたらす。九郎は大きく喉を鳴らした。
「ぐっ、おおぉ…………っおい、月子さんを連れて逃げろ!」
九郎は太陽に対して叫ぶ。
「やだ、くろさんっ、死なないで。赤い水に、なっちゃう……っ!」
月子が泣きじゃくるが、太陽は九郎から「逃げろ」と言われ、月子から「やだ」と言われ、混乱したように「あーうあーう……」と泣きながら途方に暮れている。
やがて男はデロリ……と溶けはじめた。
それは雪が地面に落ちたとき、時間をかけて地面に染み込んでいくように。
着込んでいる九郎よりも、男のほうが表面積が大きく、溶けはじめるスピードも速い。
「なんだい……生きているなら、殺せずとも死なせることはできると、そう思ったのかい? ずいぶんと君は簡単に物事考えられるようだねえ! 私がいなくなったら、いったいどれだけ世界にとって損失が」
「うるさい、黙れ」
もう九郎はこの男は詭弁しか使わない自己中心的な者だと知っている。
どれだけ命を作り出すことができたとしても、この男は命を愛でない。
完成品であるはずの月子すら平気な顔して記憶を削除してから彼女を分解する気だったのだ。
ここで助けたとしても、感謝することなく月子に手をかけるだろう。
月子をこれ以上傷つけたくない上に、彼女の善性が根こそぎ剥ぎ取られて、月子の姿のまま影狼のように、ただ理性もなく感情のままに人を襲う化け物になってしまったら……彼女を殺せる自信が九郎にはなかった。
(俺がこいつを消したら……月子さんだけは助かるかもしれない)
九郎は地下鉄警備隊の隊員だ。
しかし、今だけは月子のことだけで頭がいっぱいで、月子を影狼にしたくない、月子を殺したくないばかりを考えて、地下鉄の突然の落盤事故に右往左往している原たち地下鉄警備隊の面子やこれを修繕しなくてはいけない作業員たち、日々謎の生き物に脅えて暮らしている帝都の人々のことは、頭からスコンと抜け落ちていた。
九郎は必死に男を赤い水に漬け込もうと腕に力を込める。
そのたびに九郎も詰め襟からわずかに覗く手首が、手袋と詰め襟の中に着ているシャツの間の皮膚が、赤い水に触れる。そのたびにジュワ……ジュワッッと音を立てて赤い水が染み込んでいき、九郎の肌に熱湯をかけたかのような熱さと激痛を与えていく。
九郎はそのたびに「うぐっ」「ううっ」と激痛の悲鳴を上げるが、それと同時に男に対して嘲笑を浮かべていた。
「世の中、いずれひとりで隠れてこっそりとなんてできなくなる。研究したけりゃ、それこそ孤島にでも篭もってやっていればよかったさ」
この国は山や海。孤島。陸の孤島。
大正の世に入ってもなお、人の手の入ってない場所はいくらでもある。本当にひとりで誰にも邪魔されずに研究をしたかったのならば、そこで研究をしていれば、誰も危害を加えられることはなかったし、死ぬこともなかったのだ。
「でも、帝都みたいな人通りの多い場所に勝手に居着いて、勝手に研究をおっぱじめた挙げ句、勝手に犠牲者を増やしても知らぬ存ぜぬを貫き通す……」
結局この男は、どれだけ自分の研究の素晴らしさを論じ、亡くなった人々を「残念」と口で言ったところで、帝都の豊かさに漬け込んで、勝手に帝都の豊かさを搾取しながら研究を維持していたのである。
錬金術たるものに必要な素材や資源。自分の実験成果を見る人間。この場を荒らされるかもしれない機会や時間はあれども、結局は生活の快適さや豊かさを優先した結果、この男は都会から離れるという選択肢がひとかけらもなかったのである。
だからこそ九郎は、この男の身勝手さを言ってやらなければ気が済まなかった。
帝都は江戸の頃から、常に余所者たちが流れ込んできて、皆それぞれ余所者だという気質のまま形成された場所だ。だが余所者にだって守らなければならない規律が存在する。
その地に従え。従えないならば出ていけ。
それは江戸から明治になって幕府が廃止され、日本政府が立ち上げられた今でも存在している規律だ。
勝手に住み着いた挙句に、自分ルール以外を一切無視して居座ってはならない。
九郎は同じ余所者のはずの男が、我が物顔で帝都の地下に滞在しているのが気に食わなかった。
「俺だって正直帝都がものすごく好きな訳じゃないが、帝都にだって友人知人はいる。それが迷惑こうむるのは勘弁だ」
男はただ研究がしたかっただけ。その研究が禁止されてしまったからこの国に渡ってきただけ。そしてこの国で研究を繰り返しただけ。
もしもそれだけならば、田舎から上京してきた九郎とそこまで変わらなかっただろう。
だが。九郎は少なからず帝都には愛着が生まれていた。この男には残念ながらなかった。だから九郎の怒りに触れたのだ。
人間、愛着のないものはどれだけぞんざいに扱ってもかまわないという残忍性を持つ。
この男の正体はわからないままだが、作り出された命である人なのか獣なのかわからない影狼だけならいざ知らず、言葉を認識できる月子のことも、巨大な赤子として生を受けた太陽のことも、大して愛着がなかったのだ。
命を生み出したという矜持を保つための自己顕示欲を満たす存在としての愛着はあったが、それは一過性のもの。人間に対して持っていい感情ではない。
愛着があればなにをやってもいい訳ではない。だが。愛着もなしに他人の居場所を土足で踏み荒らしてはいけないのだ。だから、九郎は全身に力をかけて、男を倒さなければならなかった。
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