二
九郎の声は震えている。日向に干してパサパサになってしまったご飯のように、かさついてしまっていた。男はそんな苦労をからかうことなく、淡々と口を開く。
「錬金術。聞いたことがないかい?」
「……れんき……?」
質問を質問で返されたが、九郎にとっては聞いたこともない言葉だった。
「そうか、この国の今の元号はたしか大正だったと思うけど。大正の世になって、海の向こうからずいぶんと幻想小説やら怪奇小説やらが流れてきて、この国の作家たちも真似して書きはじめたと思っていたけれど。錬金術については流れてこなかったようだねえ」
「なにを言ってるんだ、あんたは」
男はどこまで行っても我関せずで、九郎の疑問や苦言すら、聞き流してしまっている。
話したいことしか話さないのだ。たまに頭がよ過ぎる人間にありがちな、自分さえきちんとわかっていればいいという傲慢を、この男は隠そうともしない。
「ようし、少しだけ講義をしようか」
「……待て、そもそも錬金術と影狼と月子さんに、なんの因果関係が……っ」
「あるよ。おおいにあるよ。まずはイチから説明しようじゃあないか。君はその口を一旦閉じたまえよ」
ペラペラと回る口の男の言葉に、九郎は渋々黙った。
男は満足げに頷いて「ゴホン」と咳払いをすると、スタスタと歩きはじめる。
これ見よがしに歩いて向かった先には、鍾乳洞にそぐわない机があった。机の上には大量に羊皮紙が並んでいる。
昔ながらのインク瓶に付けペン。並べられている本は洋書だが、紙は湿気を含んでいるせいかゴワゴワと膨らんでしまっている。
書かれている文字は、大学で勉強をした九郎ですら読めない。英語のようにも見えるが、スペルが若干違う。それは古過ぎる古文は日本語として読めないように、古い文法だとしか読み解くことができなかった。
男はその古い文字の本をペラペラと捲りながら、それを読み上げるようにして講義とやらを開始した。
「まずは錬金術。古代エジプト発祥とされている学問であり、元を辿れば
「金?」
「そう、金。この国にも江戸時代まではずいぶんと大量にあったようだが、諸外国によってたかって毟り取られてしまったようだし、この国の皇帝はそれに嫌気が差して遺産を隠してしまったようだけどねえ」
皇帝というのは、かつてあった江戸幕府の将軍のことを差すんだろうかと、漠然と九郎は思った。
頭のいい人間というものは、自分がわかりきっていることの説明をしないため、結果的になにを言っているのかわからなくなるのだが、この男は非常に流暢で淀みがない。
わかりやすい言葉を使う男は詐欺師で、わかりにくい言葉を使う男は馬鹿者なのだが、この男についてはどちらなのか、九郎にもよくわからなかった。
男は続ける。
「話を戻そう。古代エジプトから続いた錬金術の研究は、遠征や戦争によって、大陸中に広がっていった。古代ローマ、中世ヨーロッパ。各地で広がっていったものの、一向に錬金術で金の生成に成功する者は現れなかった。しかし研究が進み、考察が進む中、錬金術を研究する者……錬金術師の中で、ある声が広がった」
九郎は眉根を寄せた。
外国にあった陰陽術のようななにかと月子の因果関係がなにひとつ結びつかずに困ったのだ。だが一向に男は講義を辞めるつもりがない。
「『金の生成のような意味のあるのかどうかわからないものより、これらの研究を使って薬の生成をしたほうがいいのではないか』。これにより、錬金術で金の生成を行う行為はオカルトに区分され、錬金術と呼ばれるものは全ての病を治療する賢者の石やエリクシールの生成の研究へと移行することになった……万能薬と言われても、きっとピンと来ないだろうねえ。仙人の仙丹、万葉集で詠まれた
「……待ってくれ。錬金術の研究が、金をつくることから、万能薬をつくる研究に変わったところまでは理解できたが、それでいったい影狼や月子さんとどんな関係が……」
「おやおや。ここまで言ってもまだわからないか」
男はにこやかに笑って、赤い水を指差した。コポリ、と気泡が出てくる。
「万能薬の生成の最終目標は、元は不老不死のためのものだった。かつての大陸の皇帝の中には、全ての権力を手に入れたあと、不老不死の万能薬として水銀を飲んだように、全てを手に入れた者はやがて不老不死の研究に行き着く」
九郎からしてみれば意味のわからない話だった。
全ての病気が治るのは願ってもいない話だが、それが不老不死の研究に行きつくのかがさっぱりわからない。彼視点では、長生きじゃなくって死にたくないという感覚がわからなかったのだ。
朗々と語る男は、首を振りながら続ける。
「しかし、残念ながら生きとし生けるものは、どうあっても老化には抗えない。鋏だっていずれ錆び付いてなにも切れなくなるし、棚だって時間が経てば壊れてしまう。同じ肉体を若返らせても、経年劣化には耐えられないと気付いてしまったのさ」
人が大切にしている古い物は、美術品として絶えず鑑賞されているものならいざ知らず、実用品で終始実用に耐えるものは存在しない。
刀や剣は三回ほど斬ったら刃こぼれが生じて実戦には使えなくなるし、劣化が進んで折れることだってある。
人間の体は強いようで弱い。骨が折れれば元に戻るまで最低でも三か月はかかるし、その間は歩くこともままならない。病にかかれば身動きが取れなくなるし、流行病にかかればその治療法が見つかるまでに死に至ることだってありうる。
そんな弱った体を後生大事に使うことを、徹敵的に合理化を考える錬金術師が不毛に思ってもおかしくない話だった。
男は淡々と続ける。
「だから錬金術師も、万能薬の研究を放棄して、不老不死の研究のアプローチ方法を変えたのさ……新しい肉体をイチから産み出して、その中に魂を移し替えるという手段にね」
「な……肉体?」
九郎は目眩を覚えた。母胎を使わずに肉体を産み出し、そこに魂を移し替える。
たしかに不老不死を目指す者たちにとっては最良だろうが。母胎を使わないで生まれた人間は、果たして人間と呼べるのだろうか。そしてそもそも産み出されてしまった人間の命はどこに言ってしまうのか。
外国ではどういう風に扱われているのか九郎は知らないが。
魂はこの世に恨みつらみが残ってしまうと、いつまで経っても成仏できずに、この世を彷徨い続けるのだ。それは怖い話として、幼い頃から何度も聞かされてきた話だった。
人間の命を、いったいなんだと思っているのか。
「それは……本当に研究として、正しいのか?」
「不思議なことにねえ」
男は九郎の震える声で尋ねる疑問を無視して、首を捻りながら赤い水を見た。
この男は、研究者に稀に見る属性の人間だった。自分の学術的興味を満たせさえすれば、倫理観やら宗教やら道徳やら……全てを無視して行動してしまうという。
「一応科学的には人間はどんな成分でできているかは証明できているんだ。だけれど、どれだけ同じ量の成分を揃えて培養しても、人間の一部を切り取って育ててみても、ちっとも人間になってくれやしないんだ。だから豚、山羊、羊、果物……ありとあらゆる人間の成分に近い動植物を混ぜてやっと命の形になるのに、ちっとも結果が安定しなくてね。新しい命をつくることには成功したんだよ。でもねえ、どれだけつくっても、人間にならなかったんだ」
(まさか……)
九郎にポツポツと鳥肌が立つ。
生理的嫌悪からやって来るそれが九郎の体全土を回り、唇がブルブル震え、歯がカチカチと鳴る。
人間をイチからつくるために、人間以外の成分を使っていることそのものには問題を覚えていない。豚やら山羊やら羊やら果物やら……人間からしてみれば人間とは遠い存在の成分を混ぜて人間をつくり上げるという方法は、人によってはおぞましいが、九郎が生理的嫌悪を覚えたのはそこではない。
この男は、自分の研究のせいでどれだけの人間が犠牲になったとしても、どれだけ死んでも、そこにはなんの興味もないのだ。
全てにおいて他人事だと思っている男は、自分の研究が達成すること以外になんの感傷も感情もない。
どれだけ醜悪な生き物ができようとも、どれだけ死体が山となって積まれようとも、彼はなんにも思わない。だから傷つかない。
既に何人もの人間が、訳もわからないまま襲われて、中には命を落としているのだ。しかしこの男にはなんにも思うところがないらしかった。
「影狼は、やはりお前が……!?」
震える唇をどうにか動かして声を荒げると、男はピクンと眉を持ち上げた。
「かげろう? ああ、ホムンクルスのことか」
「ほむんくるす?」
「人工生命体とでも言えばいいかね。地上の人間がかげろうと呼んでいるそれは、私がつくったものなんだろうね」
あまりにもあっさりと、男は吐いた。それに九郎は愕然とする。
「そうだね。錬金術は時を経て禁術やオカルトと称されて忌み嫌われるようになり、母国では研究できなくなった。仕方がないから、錬金術を禁じられていない場所に移り住むしかできなかったのさ」
「だから帝都の地下に勝手に住み着いていたのか!?」
「誰も使わないから、使っていただけじゃないか。私だって誰にも迷惑かけられずに落ち着いて研究ができればそれだけでよかったのに。いきなり鉄道計画を決めたのは帝都のほうじゃないか。こちらが先だったのに」
「この土地は帝都のものだが!?」
それは母国に帰ることのできなくなった人間の言い分ではない。住むことは問題ないが、移住先の住人たちに迷惑をかけてもいいのか。
しかし男はどこまでも傲慢であり、新しい国の人間に対しても情はない。
「心外だなあ。ここの所有権は地上だけだろう? 地下に所有権なんてあるんだったら、とっくの昔に私は追放されていただろうさ。実際に私はご維新のときには既にここに住んでいたが、誰にもとやかく言われた覚えはないね」
「お前は……お前は……」
話にならない。
この男は勝手に帝都に住み着いておきながら、帝都の人間に興味すら抱いていない。
話の節々で九郎よりも日本について詳しい気配は感じ取れるが、それでも彼は日本の歴史に興味があるだけで、 個々に元から住んでいる日本人を自分と同じ人間だと思っていないのだ。
だが。九郎は少しだけ違和感を覚えた。
(ご維新は既に七〇年以上前の話では……?)
今では明治維新とも呼ばれるそれ。
江戸幕府が終わり、明治政府が開かれるまでの一連の騒動。それは旧幕府軍が蝦夷で降伏する戊辰戦争まで長く尾を引いた。
それは九郎が大学に通うために上京してくるまで、詳しくは知らなかったが、九郎の曽祖父の代の頃の話だったと記憶している。
これをさも見てきたことのように言う男に、九郎は漠然とした不安を覚えた。
男は九郎にすら興味を向けることなく、淡々と自身の主張を繰り出す。
「それに私は別にホムンクルスをばら撒いちゃいない。工事がうるさくてね。気が立ったから襲いに行ったんだろうさ。私はなんの制御もしちゃいない」
九郎は思わず右腕を振りかぶって殴りかかったが、男は「おおっと」と避けた。
「あまり乱暴なことをすべきではないよ。赤い水に落ちてしまう」
「お前は……! 俺たちの国に勝手にやってきて! 勝手に影狼をつくってばら撒いて! それを知らぬ存ぜずで済ませようというのか!? 自分がただ気持ちよくなりたいからしか考えないのか!? 自慰ならば自分の国でやっていればいい! 俺たちの国を、帝都を巻き込むんじゃない! くだらない、あまりにくだらない……!!」
九郎は男の言ったことを一から一〇までわかった訳ではない。
どうして新しい肉体を用意すれば不老不死を得られるのか、そもそも魂の移動なんてどうやってするつもりなのか、つくられたときにいるはずの魂はどうなるのか、そこまで考えている訳でもない。
ただ、彼は中途半端な研究をしたせいで、人間でも獣でもない生き物が生まれ、都合のいい人間がつくれなかったからと、それを野放しにしていることまでは理解できた。
野放しにされたそれが夜な夜な人を襲う……金品を盗むならば、かろうじて人間が欲のために人を襲ったと怒りはあれども理解はできる。
人を食べないと生きていけないというなら憤りはあれどもまだわかる。
里山で生きている者だったらいざ知らず、人間の手の入らない山には、理不尽な生き物たちが大勢いる。それらと生存競争をしていた九郎からしてみれば、帝都で起こっていた理不尽なものも、生存競争と思っていたら割り切ることはできた。
人の命を諦めることはできても、慣れることができなかったのは、そうしないと生きていけないと染みついていた生活によるものだったのだから。
だが影狼はそんな生き物ではない。
ただ気に食わないから襲うという、赤子がなにかにつけて泣く行為と変わらない。
赤子であったのなら、不眠不休で世話をしなければならないものの、赤子の癇癪では誰かが死ぬことはない。
しかし影狼が気に食わないからと噛みつき、引っ掻き、暴れれば人は簡単に怪我をし、簡単に人が死んでしまう。
そんな理不尽にも程がある行為で地下鉄の作業員たちを、引いては帝都の人々をおびやかしたのである。
身勝手にも程がある。理不尽だと吼えても仕方があるまい。
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