三
帝都は表通りこそ、明治から大正にかけて文明が花開いて華やいでいるが。
一歩裏通りに入れば、江戸と明治、大正の入り混じったちぐはぐな町並みへと移り変わる。江戸時代から綿々と続く長屋通りに電線が張り巡らされているのだ。
表通りでは洋装をする人々も増えてきていたが、昔からの生活をしている場所では未だに古着の着物を布が擦り切れるまで着続けていた。
人を雇って洗濯してもらえるのだったらいざ知らず、自分で洗濯するとなったら、未だに洋服より着物のほうが勝手がよかったのだ。
九郎はその道を月子の手を引いて歩いて行く。
月子のほうには、ときどき人が驚いたように彼女のほうに視線を移されては、ぱっと視線を外される。
彼女の襦袢のように薄い着物を見て、誰もが怪訝な顔になっているのだ。
襦袢姿で逃げ出すとなったら、吉原の遊郭に売り飛ばされた遊女たちの中では、堀に飛び降りて泳いで逃げるようなものもいるらしいが、月子は遊女にしては髪も束髪程度で髷をつくっておらず、リボンで留めた女学生のようないで立ち。吉原の一番身分の下の見世であったとしても、売りにくいだろう。
そこまで想像して、九郎は首を振った。
(いくらなんでも、こんな下世話な想像は月子さんに対して失礼だ……彼女の服をどうにかしてあげたいが……俺だと女性の服の趣味がわからない。まず今は洋服なのか? 着物なのか?)
帝都の女学生の流行なんて、当然ながら九郎は追ってない。
おまけに最近は洋服を着ている女性も増えたため、ますます今の女性の趣味が九郎にはわかっていなかった。
やがて長屋通りに一棟の長屋が見えてきた。
地下鉄警備隊寄宿舎。
名前だけ聞けば立派だが、そもそも地下鉄警備隊は地下鉄開通までの鉄道警備隊の期間限定部門なため、撤去しやすいよう江戸時代から修繕されて使われ続けてきた長屋を買い取って寄宿舎としてあてがわれていた。
当然築百年は経っているため、どこもかしこもがたついている上、部屋も寝て起きるくらいの広さしかない。近所の銭湯まで行かなければ風呂に入ることはできず、厠も共同のものしか存在していなかった。
江戸時代で時が止まったようなこの場所は、電気こそ通ってはいるものの大家の住む家以外には瓦斯すら通っていない。
そもそも家具を置く場所も床下収納しかないほどの広さしかないため、料理をつくる場所もない。
寄宿舎の人々は大家宅で事前に言って食事をいただくか、外で食べるかしないといけなかった。
さすがに月子をいきなり自宅に連れ帰る訳にもいかず、九郎は大家夫妻に預けるべく会いに行くことになった。
大家夫妻は普段は鉄道警備隊の各所に存在する寄宿舎の大家を務めており、期間限定部隊のためのこの寄宿舎には出張してきていた。
見た目だけならば人のよさそうな顔をした夫妻であるが、長年鉄道警備隊の業務や持ち込まれた問題に対処している海千山千の猛者ではあった。
動きやすいよう着物の下にモンペを穿き、妻は髪を三角巾でまとめて前掛けをしていた。どうもふたりで帳簿を付けているところで、九郎が帰って来たようだった。
「すみません、在帆士ですけど」
大家の家の玄関で声をかけると、月子は興味深げに辺りを見回していた。
大家の家はふたりが帳簿を付けるために奥まっていて、そこから先に靴を脱いで入れば台所に出る。そこに大きな机と椅子が並べられ、朝食は専らそこで食べるのが生業だった。
大家の妻は帳簿から顔を上げて、九郎と九郎の連れてきた客人の顔を見て、キョトンとした顔をする。
「あら……九郎くん。あなたついに春が来たの?」
「ええっと……」
九郎は困った顔で月子に振り返った。
月子は目をパチパチさせながら、不安げに大家夫婦を見てから、きゅっと九郎の制服の裾を掴んだ。
それに妻は「あらあら」と微笑ましそうな顔をしたものの、夫のほうは苦渋を舐めたような表情をしてみせる。
「こら在帆士くん。女を連れ込むなんてこちとら聞いちゃいないぞ。寄宿舎は基本的に男女別だ。女子の寄宿舎はあっちで……」
「い、いえ……彼女は目撃者で。事故にあったのか、記憶喪失で……」
「目撃者?」
「はい……影狼の。隊長から連絡は来てなかったですか?」
九郎はなんとか彼女の保護と事情聴取を隊長の原から任されたことを、なんとか頑張って大家夫婦に伝える。
原が連絡しただろうに、どうも夫婦がそれぞれ外に出ている間に電話をしたため、すれ違ったらしい。
大家夫婦も一応は地下鉄開通の期限があと二年を切っているにもかかわらず、遅々として作業が進まない理由も、急遽地下鉄警備隊が編成された経緯も知っている。
だが九郎の説明にはふたりとも首を傾げてしまったのだ。
「ずいぶんと、荒唐無稽な話だなあ」
「そうは言いましても。現に月子さんは五体満足ですし、影狼からは逃げおおせています。ですがなにかしらあったのか、記憶がままならず」
「それで九郎くん以外とはまともにしゃべれないのぉ。あらぁ……」
妻はまじまじと月子を見ると、月子は怖いと判断したのかさっと九郎を盾にしてしまった。
それに夫は「んー……」と腕を組んだ。
「たしかに氏名も住所もわからない目撃者なんざ、警察にも預けられねえだろうが……だからと言って、唯一まともに会話が成立するからって在帆士くんに預けるたぁ、隊長さんも少々投げやり過ぎないかい?」
「自分もそう思いますが、このままじゃ彼女が気の毒ですし。食事の面倒は自分が見ますが、どうか寝るところと……」
九郎がどうにか大家に頭を下げると、大家は困ったような顔をして、大家の妻のほうを見た、大家の妻はずっと月子の格好を見つめている。
「そうねえ、服がかなり古ぼけててよくないわね。せっかく若いお嬢さんなんですもの。娘の女学校時代の服が残ってるから、それ着せてあげましょうか」
それには九郎もほっとした。
なんとか彼女にまともな服を調達してあげたかったが、自分では女性がどんな服が着たくて、どんな服が似合うかさっぱりわからないから、娘持ちの夫妻に頼んだほうがいい。
ちなみに大家夫妻の娘はとっくの昔に嫁入りしているため、帝都の外で暮らしているらしかった。
妻は九郎に「そこでお茶を飲んでて待ってて」と奥まった席を譲られ、月子を伴って奥へと入ってしまった。九郎は大家と一緒に茶を飲んで待つことにした。
しばらくしたら、「できました」と声を弾ませて妻は月子を連れて戻ってきた。
それには夫は「おお……」と声を上げた。一方、九郎はそもそも田舎の気の強い女しか知らない。そのため女学生とはほぼ顔を合わせた覚えがなく、言葉を失っていた。
長い髪はひと房を三つ編みにするとリボンで束ねられた。
着物は鮮やかな銘仙であり、赤いリボンに加え、黄色い銀杏と黒い蝶が飛び交う模様は美しい。そして提灯袴を穿かせると、風呂敷を胸元に持ってブーツを履いて帝都を駆け回る女学生に溶け込んでいてもおかしくない様相だった。
なによりも。
どこか青白く不安げな顔をしていた月子は、妻が親切心にへちま水を塗り、真珠の粉をはたいてあげたため、大変血色がよく見えたのだ。要は元々よかった素材が生かされ、月子は見事美しい娘へと羽化していたのだ。
「あのう……?」
月子に不安げに声をかけられ、九郎は我に返って背中をピンッと伸ばした。
「大変お綺麗です!」
「おやおや、九郎くんったら、ほんっとうに仕事熱心が過ぎて浮いた話がひとっつもなかったのにねえ……」
「まあ、こんな別嬪さんだったらそんな態度にならぁな」
大家夫婦にさんざんからかわれたところで、電話が鳴った。
寄宿舎で電話を置いてあるのは大家宅しかなく、大家はそれを取ると「はい」「はい」と言って電話を切った。
「原隊長から連絡があったよ。在帆士くんと同じようなことを言って、月子さんを預かってほしいとさ」
「まあ! それじゃあしばらく預かりましょうか。九郎くん、それでいいわね?」
「は、はい。ありがとうございます!」
九郎は頭を下げると、それを見ていた月子も真似して同じ姿勢を取った。その様子がおかしくて、大家夫妻はくつくつと笑った。
ひとまず月子の寝場所は、この夫婦の元に預けることでまとまったのである。
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