第二章 赤方偏移

翌日の午後、空は鉛色に変わっていた。


観測室では、北村博士が望遠鏡の調整をしていた。彼女の動きは正確で、無駄がない。41歳という年齢を感じさせない、研究者特有の集中力があった。


「このままでは、今夜の金星内合の観測は難しいですね」


北村博士がモニターを見ながら呟いた。


「内合って、地球から見て太陽と同じ方向にある状態ですよね」


美咲が興味深そうに訊ねた。彼女は天文学専攻だけあって、基本的な知識は持っている。


「そうです。だから通常は観測できません。でも、金星が太陽面を通過する時は別。非常に稀な現象で、次は2117年まで起こりません」


「でも、今回は通過しないはずでは?」


美咲の疑問に、北村博士は少し困ったような表情を見せた。


「ええ、その通りです。なのに黒田教授は...」


彼女の言葉は、入ってきた相沢助手によって遮られた。


「北村先生、教授がお呼びです。東側の機材について相談があるそうで」


北村博士の顔色が変わった。


「東側? あそこは使用禁止のはずでは」


「詳しくは教授から直接...」


夕方になって、雪が本格的に降り始めた。窓の外は、もう数メートル先も見えない。


食堂に集まった私たちに、田中が申し訳なさそうに告げた。


「すみません、下山できません。この吹雪では危険すぎます」


「どのくらいで止む予定?」


黒田教授の問いに、田中はスマートフォンの天気予報を見ながら答えた。


「最低でも48時間は続く見込みです。記録的な大雪になりそうで...でも、ご安心ください。救急バッグは完備です。AEDも車載してます」


その時、私は気づいた。黒田教授の表情に、なぜか安堵の色が浮かんだことに。まるで、この雪を待っていたかのような。


夕食の席で、山崎が薬を取り出した。小さな遮光瓶から、白い錠剤を一粒。


「ニトロペンは遮光瓶で保管してますか?」


田中が心配そうに訊ねた。


「もちろん。開封後3ヶ月で交換してる。効果が落ちるからね」


山崎がそう答えた時、北村博士が不自然なほど長く、その薬瓶を見つめていた。まるで、何か考え事をしているような、そんな視線だった。


美咲が私の袖を引いた。


「詩織、なんか変じゃない?」


「何が?」


「みんな、何か隠してる気がする」


美咲の勘は鋭い。私も同じことを感じていた。この天文台には、誰も口にしない秘密が潜んでいる。

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