2-2 見える範囲に動くモノは無い

 なだ羽多子はたこがマンションの部屋を借りて手に入れたのは、古びて分厚い魔導書だった。


 がらんとした部屋の中。家具も何も無い殺風景なリビングの床の上に、ポツンと置かれていたのだ。

 部屋を案内した不動産会社の社員は拾い上げ、「あなたのモノですよ」と差し出された。


「この部屋とワンセットなのです」


「魔導書っていったい何なんですか」


 手渡されて開口一番出て来た台詞がソレだった。


「おや、やはり本の題名は読めるのですね」


 男はしたりといった表情で、満足げに頷いていた。


「あ、はい。初めて見る文字なのに、何故なぜだが読めて。意味まで判って・・・・」


 理解出来て一番戸惑っているのは彼女自身であった。


 これはいったいどういうコトなんでしょう。


 小首を傾げたがサッパリ分からない。英語すら不得手な自分が何故にどうしてと疑問は膨らむばかりだった。


「その本に認められたということですよ」


 不動産会社の社員はそんなコトを宣った。どういう意味なのですかと尋ねてみても、他に言いようがありません、などという返事があるばかり。


「惑うことなど無いのです。その本が導いてくれますよ」


 小太りな彼はそう言って薄い営業スマイルで微笑むばかりだった。

 そしてその言葉の意味を身をもって知ったのは、引っ越したその日の夕刻のことであった。




 夕飯の買い物をしようとドアを開けたら、廊下に何だかよく分からないモノが立っていた。


 最初は同じ階に住む子供かと思ったのだがどうにも違う。何というか、ボロボロの衣服をまとい、ヒトの背格好をしているがヒトじゃないナニかだった。

 一番近いモノに例えるのなら、西洋の童話などに出て来る小人だろうか。

 いや、振り返った顔が人間離れして醜悪で、笑んだ口元にキバが見えたから小鬼グレムリンなのかも知れなかった。


 いきなり襲いかかって来たので慌ててドアを閉めた。焦って閉め損なって相手の手首が挟まり、その隙間からこじ開けようと力を込めてくる。

 細い指先だったが爪がかぎ爪みたいに尖っていた。小学生と変わらぬ背丈なのにやたら力が強かった。


 必死になって、小刻みにガンガンと開け閉めを繰り返した。三回、四回、力任せに叩き付けるようにして何度目か。ようやく諦めて手を引っ込めた。でも向こう側から、閉めたドアを何度も手荒く叩き続けて居た。


 叩く音が無くなってようやく諦めたのかと思い、のぞき穴から見たがよく見えなかった。なので、ドアの新聞受け口から覗こうと腰を屈めた。こっちならちょっとダケ視界が広い。

 だが既にフラップが開いている。何故、と思ってよく見たらギラギラとした目玉がコッチを覗き込んでいた。


「ひいっ」


 悲鳴を上げて尻餅をついた。


 慌てて部屋まで引き返した。

 そしてまだ段ボールに入ったままの引っ越し用荷物をドアの前に積み上げて、目隠しし、覗かれないようにした。ソコまでして、ようやく落ち着きを取り戻すコトが出来たのである。


 アレはいったい何なのだ。


 新聞受けから覗いていた目は、黄色とオレンジの虹彩の異様な目玉だった。顔つきだって完全に人間離れしていた。耳の辺りまで引き広がった口元に、魚の歯のような小さくて尖ったキバがズラリと生えていた。

 どう控えめに見積もってもヒトとは思えなかった。


 パーティー用のマスクを被った子供?あの目もカラコンだった?


 いやいや、それにしては余りにも生々しくて迫力満点だ。


 このマンションで、映画か子供向け番組の撮影をやっている?そんなお知らせなんて聞いていないけれど。


 考えても答えは出て来ない。

 取敢とりあえずアレは、自分を襲って来て部屋の中に入ろうとするのだ。不法侵入なので警察を呼ぶ理由にはなる。

 だというのにスマホは通じなかった。友人知人はおろか会社にも通じない。圏外じゃなさそうなのにまったく相手が出ないのだ。


 しばらく放って置いたら何処かに行ってくれるのだろうか。しかしまた戻って来たらどうしよう。引っ越して来たばっかりで冷蔵庫の中は空っぽだ。明日の朝ご飯どころか晩ご飯の用意すらできやしない。


 途方に暮れていたらささやく声がした。小さいが不思議と良く聞き取れた。耳を澄まさなくてもソレと感じ取れる。それは何だか自分を呼んでいるような気がした。


「誰?」


 誘われて荷ほどき中の段ボールが積み上がる部屋に踏み込んだ。だがソコは誰も居ない。

 当然だ、自分以外に居るはずが無い。それは端から知っている。だけれども、訊ねてみずには居られなかった。


 視線はふと、部屋の隅にある「魔導書」に吸い寄せられた。




 表紙を開くと心得と思しき文言があって、その後に目次と続いた。


 数多くの章に別れていて、それぞれ幻惑、治療、召喚などとあり、排斥はいせきの章を見つけて手が止まった。目次の箇条書きに眼前の困難を遠ざける術、とある。

 他にも似たような目的で回避、逃避などが在ったが、いま一番自分が必要としているのがコレではないかと思った。


 前の部屋はもう解約しちゃったし、逃げるというのはちょっと違うわよね。


 だいたい此処ここは自分の居場所なのだ。あの訳の分からないモノから逃げるというのはちょっと違うだろう。何処どこかに行かなきゃならないのは向こうの方なのだ。


 そう決めて排斥の項をめくると、奇妙な感覚が在った。

 何というか、ずいっと奥に踏み込んだような気がして軽く身震いする。まるで真夏の白昼、日向からうっそうとした暗い森の中へと踏み込んだ時のような。


 順次ページをめくる内に「移し替え」とめい打たれた術に興味を覚えた。ソレは自分に向けられていた興味を他の誰かにすり替える、要はヘイトを他者に移す術かと理解した。

 他にも都合の良さそうな方法はいくつも在ったが、この移し替えが一番用意するモノが少なくて、一番易しそうに見えたというのがポイント高かった。


 しかし、こんな怪しげな本の怪しげなやり方に頼るわたしもどうかしてるよね。


 助けを呼びたくても呼べないし、かといってアレが居るかも知れない廊下を駆け抜ける度胸もない。

 それに運良くエレベータに乗り込めたとしても、アレが一階のエントランスにでも移動していたら身動き取れないではないか。エレベータのドアが開いた途端、襲いかかられたらもう逃げ場すら無い。


 いやそれ以前に、いまも玄関の陰に潜んでいて、ドアを開けた途端部屋に中に入り込まれてでもしたら・・・・


 冗談じゃない。


 自分の肩を抱いて身震いした。


 用意するモノは、歩幅にして五歩、それを直径とする円を描ける場所で、正確な四方位に目印となるものを置き、呪符を貼り付ける。

 用意する目印は円筒のものが好ましいが、他のモノでも代用可。呪符も、材質や文字を書く筆記用具、インクなどに規定はなく、忠実に文字と紋様とが描けていればソレでよしとあった。


 なのでボディソープの瓶とヘアスプレーの缶、紅茶の葉が入った角缶に円筒形のペン立てを四つの方角に配置。

 呪符はメモ用紙にボールペンで書いて、目印にセロテープで貼り付けた。後は排斥する対象を東側の呪符にイメージし、それを移す対象を西側の呪符にイメージしながら、呪文を唱えつつ円の内側を時計回りに三回まわれとある。


 術の解除には、目印に貼った呪符のどれか一つでも破くか燃やすかすればよいらしい。


「ホントにこんな簡単な事で出来るのかな」


 やると決めたのは確かに自分だが、準備を進める内に大丈夫なのかと小首を傾げた。それにコレは、ヘイトを移す相手が居なければどうしようもない。


 しばらく考えて、移す相手はヒトじゃないと駄目なのだろうかと思いついた。犬とか虫とか、あるいはシャープペンとかボールとかでも良いのではなかろうか。本には別に生き物じゃないと駄目とか書いてない訳だし。


 ものは試しと、荷造りの時に使ったガムテープがあったので、それを対象の支柱(正確にはヘアスプレーの缶)の前に置いて念を込めた。半信半疑ではあったがダメ元である。


 そして珍妙な呪文を唱えながら、円の中を三回まわった後にガムテープを持って玄関に行った。そっと段ボールを避けて、恐る恐る新聞受けのフラップを開けて外を覗いてみる。

 見える範囲に動くモノは無かった。

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