私、自分勝手な人って嫌いなんだよね
小学生の頃の宥菜はいじめられていた。被害者面がムカつくとか、すぐ他人のせいにするとか、宥菜にはまるで覚えのないことが理由だった。
当たり前に無視される。あからさまに目の前でされる内緒話が、すべて宥菜の悪口に思えた。宥菜になにか話すとき、女子たちは常に群れていて、一対一で話すことなどなかった。
宥菜がこれまで見てきた女子たちは、真正面から喧嘩ができるほどの度胸はない。だから陰湿な方法に出るのだと宥菜は考える。
無論、宥菜も直接誰かと喧嘩することはできない。といって、宥菜にその自覚はなかった。
それだから、宥菜は悪意には人一倍敏感なのだという自負がある。
教室には常にどことなく悪意がうっすらと漂っているように見えた。
そこで中学校では校区の違う学校に通うことになった。
入学式のあと、クラスに知り合いがまるでいない不安のなか、話しかけてきたのが俐生だった。
「どうしたの? 迷子みたいな顔」
凜として透き通るような声、ぱっちりとした二重の目がこちらを窺うようで、口元は笑みを浮かべている。
宥菜はそこに気遣いと優しさを見た。
それから二年生になった今でも俐生との関係が続いている。
二週間ほど前、宥菜が俐生の家に遊びに行ったときのことだった。
一通り遊んで、お互いなにをするでもない時間、スマホを眺めながらベッドに寝転んだ俐生が、唐突に言い出した。
「私、自分勝手な人って嫌いなんだよね」
宥菜は自分勝手という言葉に
「私自身が自分勝手だからね」と補足する俐生に、鵥の話じゃないのかと思う。
宥菜は俐生の顔色を窺いながら「そんなことないよ」と当たり障りのない答えをした。
俐生が求めていたことはそうではなかったようで、彼女は「ううん」と首を振った。
「
――ああ、光吒くんか。
宥菜には思い当たることがあった。
光吒は一年生の頃から宥菜や俐生とクラスが同じだった。
休み時間、男子たちが騒いでいる一方、光吒は自分の席でひっそりとしていた。誰かに話しかけられることなどめったになく、たまにお調子者の男子が笑いをとるために光吒を茶化すくらいだった。そんな様子を遠目に見ながら、宥菜は近づきたくないなと考えていた。
しかし、俐生は違った。
積極的に声をかけるわけではなかったが、用事があるときは笑顔で彼に接して、一言二言なにか声をかけていた。
二年生に上がった頃からだろうか。宥菜が俐生と一緒にいると、ときおり光吒が話しかけてくるようになった。彼はおどおどしながら近づいてきては、決まって「元気?」とか「おはよう」とか、挨拶をする程度だ。俐生が返事をすると、名残惜しいのか、もっと言葉が欲しいのか、もじもじすると去って行く。朝の一度ならまだしも、日に何度も俐生と行き会うたびに光吒はそうしてくるのだ。
宥菜には、光吒が俐生につきまとっているように見えた。
「最近、光吒くんに告白されて断ったの。それでも光吒くん、私に何度も話しかけてきて困るんだよね」
宥菜は、いかにも光吒らしいと思った。
あのじめっとした印象は、湿気のようにしつこくまとわりつく。
「気まずいから、光吒くんが勝手に諦めてくれないかなって思ってる」
俐生は謙虚で優しい。そんな俐生の優しさに漬け込む奴が多いのだ。悪いことをしていない自分や俐生に、身勝手を押しつけるのは悪意だと宥菜は思う。
「俐生は自分勝手じゃないよ。それは光吒くんがいけないよ」
今度は宥菜の本心からの言葉だった。
「ありがと、宥菜」
言葉とは裏腹に俐生はそっけない様子で返事をしたのだったが、宥菜にはとろけそうなくらい甘く感じられた。
「だから、ネットって楽だよね。好きに繋がることができて、ちょっと嫌になったらすぐに切れる。リアルはそうはいかないよ」
画面を見ながら苦笑する俐生に、宥菜は自分が俐生を自分勝手な奴らから守りたいと思った。
光吒が失踪した日の放課後、宥菜は彼を空き教室に呼び出していた。
決して正面をきって言い合うことのできない宥菜だが、俐生を守ろうと決めると自然と行動ができた。
そこには考えがあった。
光吒がもし暴れようものなら、あるいは自分を泣かせようものなら、宥菜は周囲にそう話すだろう。余計にクラスでの立場が悪くなるはずだ。光吒にしてみればそんな立場に追いやられるのは避けたいはずだ。だから、決して光吒は暴れることも、こちらを泣かせることもしないはずだ。
しかし、こうした打算は意識に浮かび上がる前に、宥菜の無意識の底へと沈み込んでいく。
――俐生を守るんだ。
宥菜には自身がその一心で動いているように思えた。
ところが。
「俐生さんにしつこくするのはやめてください」
――は?
宥菜は自分の耳を疑った。
おどおどしながらやってきた光吒は、宥菜がなにか言うより前にそう言ってきたのだ。
「あなたがどこでも付いてくるのを迷惑がっているんです」
まったく意味がわからないことに宥菜は困惑して絶句した。
きょろきょろと動いていた光吒の目は、次第にあたかも自分が正しいというようなまっすぐさで宥菜を見つめるようになっていた。
「それは……光吒くんの方でしょ」
なんとか絞り出した宥菜の言葉は、光吒の顔を曇らせた。意味がわからないという表情だった。
「話になりません」と言って、光吒は空き教室から出ようとした。
光吒の背中はやはりじとっと濡れていて、そんなじめじめがこうして強気な態度に出ているのが宥菜には理解できなかった。宥菜は腹の底から苛立ちが沸々と煮えるような気がしてきた。その不快感を吐き出したくなった。
「ふざけんな!」
これほどはっきりと宥菜が不快感をぶつけたことはなかった。
それでも足りず、宥菜はなんでもいいから相手を脅す言葉を探そうとした。
これまでそんな経験などなかった宥菜は、手当たり次第に言葉を探って、最もよく耳にする言葉を持ち出すしかなかった。
「あんたなんか、ムゲンカガミで消してやる!」
その言葉に光吒が足を止めた。
彼はゆっくりと振り返る。
「そんなものあるわけないじゃないですか」
光吒が去ったあとも、宥菜はしばらく空き教室にいた。
決して宥菜はムゲンカガミのことを信じていたわけではない。なにか自分の不快感をぶつけ、相手に傷を負わせようと思ったのだ。しかし、それが逆手にとられてしまい、あたかも自分が幼稚な人間のように扱われた。
――やっぱり、私は悪意を向けられるんだ。
こちらをバカにするような表情を思い出して、宥菜はそう思い込む。
――どんなに正しくても声を荒げたら悪くなっちゃうんだ。
宥菜はそう思い込むことにした。
「どうしたの」
黙り込む宥菜の顔を、鵥がのぞき込んでいた。
宥菜が「なんでもない」と首を振ると、鵥は興味を失ったようで、頬杖をついて夕日の方を眺めだした。
その様子が宥菜には理解できなかった。
この水たまりの合わせ鏡に、鵥は気付かないのだろうか。
なぜ平然としていられるのか。
そうした疑念が、すっとぼけているという結論に至る。
鵥はどこにいたか。
宥菜は先ほどのことを思い出す。
宥菜がふと我に返ったとき、周囲を見回したが誰もいなかったはずだ。気付いたら気配がして、隣に鵥が現れた。
格子戸が開いていたのもおかしい。
社の格子戸は普通閉められているはずだ。ところが、大鏡を見たとき、格子戸が開いていた。鵥が開けてから宥菜の隣に座ったと考えるのが自然だろう。
それはつまり、大鏡の角度を変え、水たまりと合わせ鏡になるようにしたのも鵥で、宥菜にムゲンカガミをやらせる機会を窺っていたのではないか。
悪意の正体がわかった。この無神経で気遣いすらできない女は、賢しくも罠を仕掛けてきたのだ。
宥菜の脳裏に小学生の頃に受けていたいじめが思い浮かぶ。無視され、仲間はずれにされた。うっすらと自分に対する悪意のようなものが教室に漂っていた。
俐生と出会ってようやく抜け出せたところに、今度は無視するどころか、存在を消そうとしてくる。
――逃げるだけじゃ、どうにもならない。どうすればいい。
追い詰められた宥菜は、悲しみや絶望よりも、圧倒的に強く危機感を覚えた。
「俐生ちゃん、なにやってんだろ」と言いながら鵥がポケットに手を入れた。なかからスマホが引き出されるのが見えた。
――インカメラだ。
スマホのインカメラを使って合わせ鏡を作る気だ。
そう直感すると、宥菜は鵥の背後に回り込んだ。
「なにこれ、圏外?」
こちらに気付かない鵥の首元に腕を回し、もう片方で頭を抑えた。
「ちょっと、なに? やめてよぉ」
鵥は笑いながら言うが、宥菜が足を胴体に絡ませたことで、ただごとではないと気付いたらしい。
「ふざけんな!」
叫ぶ鵥を無視して、宥菜は指を這わせて、瞼を引っ張り、水たまりに頭を向けさせた。
宥菜の意図を悟ったらしい。鵥が身体を丸めて抵抗しようとするのがわかり、宥菜はさらに力を入れる。
鵥がスマホを落として、木製の階をバタバタと転げ落ちた。
小柄な鵥の力は弱い。
水面を見つめないように、目を閉じて押さえ込み続けていた。
もし、ムゲンカガミが単なる都市伝説だったとして、鵥が合わせ鏡を悪戯のつもりで作ったとしても、それは
喧嘩をするにしたって鵥の身体は小さい。宥菜がこれまで見てきた同級生の女たちは、一対一で喧嘩ができるほど度胸がない。だから無視という陰湿な行動に出てきた。こういう直接的な行動を、単なる悪戯でやるとは思えなかった。
だとすれば、鵥はムゲンカガミに確信を持っているに違いない。
光吒が消えたのはムゲンカガミのせいだと自ら言っていた。本当のところは、光吒に困っていた俐生に気に入られようとして、鵥が消したのではないかと宥菜は疑っている。いずれにせよ、光吒の失踪がムゲンカガミの確信に繋がっているはずだ。
宥菜自身、はっきりとは理解していなかったが、そう直感した。
押さえ続けていると、鵥の身体が硬直した。それからほんの一瞬のあと、鵥の感触が消えたのだった。
目を開けると、鵥はどこにもいなかった。
息がきれて、耳のなかでどくどくと鼓動の音が聞こえた。
力が抜けて、宥菜はその場に座り込んだ。
――もう、疲れた。なんで私ばかり悪意を向けられるの。
すると、けたたましいアラーム音が聞こえてきた。
落ち着き始めた鼓動が、ふたたび跳ね上がる。
見れば、鵥が取り落としたスマホが、水たまりのそばに落ちていた。水面が視界に入る。水たまりのなかでこちらを見返す自分に気づき、宥菜は我に返って背を向けた。
消え去ってなお、鵥が自分をムゲンカガミに引き込もうとしているように見えた。
合わせ鏡を見ないように、足下を見つめながら大鏡に近づく。手を伸ばして大鏡の縁を探り当て、裏返した。
ガタガタと音を立てて格子戸を閉じる。
これで合わせ鏡にならないはずだ。
階を降りてスマホに手を伸ばす。割れた画面には大きく十八時四十八分と表示されていた。ストップと表示されたボタンを押すと、こちらを威嚇するよなアラーム音は止まった。
手が震えていた。
震えを抑えようと両手を胸に抱くと、自然と涙がこみ上げてきた。
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