「これ、よんで」

青月 日日

第一部 十二年前の夏

第一章 秒針と蝉時雨

 古びた柱時計が、静かな室内にひときわ響く。カチッ、という音が、夏の蝉時雨に飲み込まれ、次第に遠ざかる。窓の外、太陽は白く地面を焼き、木々の影を濃くして、緑のフィルターを通した光がやわらかく床に落ちている。


 開け放たれた窓から流れ込む湿気のある風が、部屋の静けさをかき乱す。古書の香り、乾いた木の棚から漂う匂いが、じっとりと汗ばんだ肌に絡みつく。相川はその重い空気を背中で感じながら、静かに椅子に座った。


 指先に滲んだ薄い汗の微かな湿気が紙に吸い込まれ、時間の流れがゆっくりと、曖昧に変わる。蝉の声と秒針の音が交じり合い、時間がもどかしく、遠くなる。


 二年前、長年連れ添った妻を失った。家の中はひとりきり。子どもはいないし、親戚とも疎遠だ。居間のテーブルには、妻が最後に使った花柄の湯呑みがそのまま残されている。薄い茶渋が縁に残り、洗えばきれいになるとわかっていても、手が伸びない。


 あの頃、日々は仕事と妻の介護に追われていた。ほんの少しの休息さえ貴重で、時間があれば無駄にしたくなかった。だが今、そのすべてが突然消え、何もかもが空白に変わった。時間に追われていた日々は、今や無意味に過ぎ去り、ただ静寂が広がるばかりだ。誰かに話しかけても、その声は空虚な空間に消えていく。その空間に身を置くことに、まだどこか慣れない自分がいる。


 テレビの映像が目に入るが、音が耳を拒む。新聞の文字も、頭の中をただ通り過ぎる。蝉の声も、どこか遠く、ぼんやりと聞こえる。


 ふと、このまま息を引き取っても、誰にも気づかれないのだろうな、と感じる瞬間がある。背筋にひやりとしたものが走る。


 そんな午後、台所の壁に掛けられた温度計は、33度を指していた。古びたクーラーをつけても電気代が気になり、扇風機の風はぬるくて、背中に貼りついた汗を引き寄せることすらできない。目を落とすと、新聞の地域欄に小さな見出しが目に飛び込んでいた――「市立図書館、冷房完備」。


 翌日。


 麦わら帽子を深くかぶり、照り返しを避けるように歩き始める。光を反射する舗道を抜け、図書館の自動ドアをくぐった瞬間、ひんやりとした空気が肌を包み込む。紙とインクの匂いが交じり合い、学校の図書館を思い出させた。


 新聞コーナーの椅子に腰を下ろすと、体の熱がじわりと抜けていく。


 ページをめくる。


 肩の力がすっと抜け、ふと気がつけば、鉛筆の小さな音だけが、静かな空間に響いていた。


 数日後、足が自然に図書館へ向かうようになった。最初は新聞だけだったが、次第に郷土史や歴史書、趣味の本にも手を伸ばすようになる。司書とは顔見知りになったが、深く関わることはなかった。時計の秒針の音に代わり、紙をめくる音に包まれた日々が、いつの間にか増えていった。

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