第18話【セレスフィア視点】下層地区の聖女
グリフォンの背に乗り、王都の上空を旋回しながら、私は眼下に広がる街並みを見下ろしていた。
父が遺した言葉が、再び脳裏をよぎる。
『敵が作りし盤上で踊るのではなく、自ら盤を揺るがす一手を探せ』
そうだ。リチャード王子の庇護は、同時に、彼の権力闘争に私たちを縛り付ける鎖でもある。このままでは、彼の駒として利用され、使い捨てられる未来しか見えない。
この盤を揺がすには、新たな力が必要だ。
それは、貴族たちの権力争いの外にある力――民衆の、圧倒的な支持。
私は、眼下の淀んだ一画を、まっすぐに見据えた。王都の下層地区。
あそこには、病に苦む人々がいる。飢えに喘ぐ人々がいる。貴族たちから見捨てられた、大勢の人々がいる。
あそこは、ポヨン様の慈悲の力が、最も輝く場所。
「カシウス」
「は」
「私たちは、下層地区へ向かう」
私の決意に、カシウスは驚きもせず、ただ静かに頷いた。
「セレスフィア様の仰せのままに」
王都の下層地区。そこは、王城の華やかさとは隔絶された、もう一つの世界だった。
悪臭の漂う狭い路地、今にも崩れそうな家々、そして、希望を失った人々の淀んだ瞳。私たちは素性を隠すため、顔が分からないように布を巻き、その上から深くフードを被って、この絶望の街へと足を踏み入れた。
その時だった。路地の隅で、一人の老婆が胸を押さえて倒れ込んでいるのが目に入った。老婆の体からは、黒い瘴気が立ち上っていた。この地区に蔓延しているという『黒咳病』に違いない。
私が駆け寄ろうとするよりも早く、籠の中から小さな青い光が飛び出した。
ポヨン様だ。
ポヨン様は、躊躇うことなく老婆の胸に飛び乗ると、あの黒い瘴気に、まるで蜜を吸う蝶のように、その体を押し当てた。老婆の体から瘴気がみるみるうちに吸い取られていき、苦悶に満ちていた表情が、穏やかな寝息へと変わっていく。
「な……なんだ、今のは……」
「おい……エルミーラ婆さんの顔から、黒い痣が……消えていく……?」
遠巻きに見ていた人々が、信じられないものを見るように、にわかにざわめき始める。その視線は、もはや私たちへの警戒心ではなく、目の前で起きた奇跡に対する、驚愕と畏怖に変わっていた。
私は、フードを外し、人々の前に顔を晒した。
「皆さま、どうか、お聞きください。私は、この聖獣様の声に従い、この地へ参りました。病に苦む方がいるのなら、どうか、聖獣様の元へ」
私の言葉と、老婆の身に起きた奇跡を目の当たりにして、人々は半信半疑ながらも、次々と病人をポヨン様の元へと運び始めた。
ポヨン様は、嫌な顔一つせず、むしろ嬉々として、病の根源である瘴気を次々と吸っていく。そのたびに、死の淵をさまよっていた人々の顔に、生の色が戻っていく。
それは、まさしく神の御業。この薄暗い下層地区に舞い降りた、小さな、青い奇跡だった。
やがて、誰かが、私の前にひざまずいた。
「聖女様…聖獣様…」
その一言が、堰を切ったように、人々の間に広がっていく。
「聖女様が、我々を見捨てず、聖獣様を連れてこられた!」
民衆の熱狂的な声は、私たちの強力な武器になるだろう。
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