第34話 追手の影と、二人の覚悟

森の中を、私たちはひたすらに歩き続けていた。

王都へと続く整備された街道ではない。獣や猟師が使うだけの、踏み固められてもいない険しい道だ。木の根が足に絡みつき、ぬかるんだ地面が体力を奪っていく。貴族の令嬢として、柔らかい絨毯の上しか歩いてこなかった私にとって、それはあまりにも過酷な道のりだった。


革製の靴はとうに泥で汚れ、裾の長いドレスは枝に引っかかって、あちこちがほつれていた。

息が切れ、足は鉛のように重い。

何度も、その場に崩れ落ちてしまいたい衝動に駆られた。

けれど、そのたびに、私は前を歩く彼の背中を見て、奥歯を強く噛み締めた。

彼は、時折こうして私を振り返り、その歩みが遅すぎないか、辛くないかを確認するように、気遣わしげな視線を向けてくれる。その赤い瞳を見るたび、弱音を吐いてはいけないと、強く思った。

これは、私が選んだ道なのだから。


その日の午後だった。

丘の頂上から眼下を見下ろしていた彼が、ふと眉をひそめ、低い声で「……まずいな」と呟いた。

私も、彼の視線の先を追う。

麓の街道を、一頭の馬が猛スピードで駆けてくるのが見えた。

馬に乗っているのは、騎士ではない。軽装の、斥候のような男だった。

そして、その男の少し先を、地面を這うようにして駆ける、黒い影。


「……猟犬?」


「いや、違う」

彼の声が、鋭く尖る。

「あれは、教会の“魔香の猟犬”だ。特定の魔力の痕跡を追うことに特化した、魔術生物。……どうやら、俺たちが村で使った銅貨か、あるいは俺自身の魔力に、追跡用の術式が仕込まれていたらしい」


背筋が、凍りついた。

教会の追手。それは、王国の騎士団よりも、ずっと執拗で、厄介な相手だ。


「……どうするの?」

声が震える。もう、逃げられない。


彼は、一瞬だけ目を閉じて何かを思考すると、すぐに決断を下した。

その赤い瞳には、一切の迷いがない。


「……ここで叩く。斥候が仲間に知らせる前に、二人で仕留めるぞ」


「えっ……私、も……?」

思わず、聞き返してしまった。

足手まといにしかならない私に、一体何ができるというのだろう。


彼は、そんな私の不安を見透かしたように、私の肩に手を置いた。

その手は、力強く、温かかった。

「ティナ。君にしかできないことがある。俺一人では、この状況は乗り越えられない」


彼の真剣な眼差しに、私は息を呑んだ。

彼が、私を必要としてくれている。

その事実が、恐怖で震えていた私の心に、一本の太い芯を通した。


「……うん。私、何をすればいい?」

私は、彼の目を見て、はっきりと頷いた。


彼は、満足そうに口の端を上げると、素早く作戦を説明し始めた。

「あの猟犬は、俺たちの魔力の匂いを追っている。だから、君の風の魔術で、この辺り一帯の匂いをかき乱してほしいんだ。風で俺たちの匂いをあちこちに飛ばし、猟犬を混乱させる。できるか?」


「……やってみる!」

私に与えられた、重要な役割。

彼の期待に応えたい。その一心で、私の体から魔力が湧き上がってくる。


私たちは、斥候が通りかかるであろう、木々が鬱蒼と茂る谷間へと先回りした。

彼は、大木の影に身を潜め、息を殺している。

私は、少し離れた岩陰に隠れ、両手をそっと地面にかざした。


(……風よ。私の声を聞いて)


目を閉じ、意識を集中させる。

修行で繰り返した、魔力の精密操作。

私の周囲から、そよ風が生まれ、それはやがて渦を巻き、谷間全体を吹き抜ける、不規則な気流へと変わっていった。

私たちの匂いを乗せた風が、東へ、西へ、あらゆる方向へと拡散していく。


やがて、斥候と猟犬が谷間へと入ってきた。

猟犬は、急に立ち止まり、くんくんと鼻を鳴らし始めた。あちこちに散らばった匂いに、完全に混乱しているようだった。

「どうした? こっちのはずだろう!」

斥候が苛立ったように手綱を引く。猟犬は、唸り声を上げながら、あちこちを嗅ぎ回り、ついに斥候の言うことを聞かなくなった。


「ちっ、使えん犬だ……!」

斥候が舌打ちし、馬から降りて自ら痕跡を探し始めた、その瞬間。


《――今だ!》


彼の合図と同時、大木の影から黒い疾風が飛び出した。

彼の動きは、あまりにも速く、そして静かだった。

斥候は、反応することすらできず、その首筋に強烈な一撃を叩き込まれ、声もなく地面に崩れ落ちる。


だが、問題はまだ残っていた。

主人の異変を察知した猟犬が、敵意をむき出しにして、魔力の源である私に向かって牙を剥いたのだ。

唸り声を上げ、涎を垂らしながら、黒い弾丸のように突進してくる。


(……怖い!)

心臓が、喉から飛び出しそうだった。

けれど、もう私は、ただ守られるだけのか弱い少女ではない。

彼の隣に立つと、決めたのだから。


私は、恐怖を振り払うように、両手を前に突き出した。

「風の刃(ウィンドカッター)!」

指先に集中させた魔力が、鋭い真空の刃となって猟犬に襲いかかる。

猟犬は、それを俊敏な動きで避けたが、その勢いは確かに止まった。


怯むな、ティナ。繋げるんだ。

私は、立て続けに風の刃を放つ。

一発、二発、三発――。

猟犬は、それを避けるだけで精一杯になり、私に近づくことができない。

そして、その数秒が、彼にとって十分すぎる時間となった。


斥候を完全に無力化した彼が、一瞬で私の前に移動し、猟犬の前に立ちはだかる。

「――消えろ」

彼が、ただそれだけを呟いた瞬間。

彼から放たれた、純粋な魔力の奔流が、魔術生物である猟犬の体を打ち抜いた。

猟犬は、悲鳴を上げる間もなく、霧のように掻き消えてしまう。


谷間に、静寂が戻った。

私は、その場にへなへなと座り込んでしまった。

全身の力が抜け、指先がまだ小刻みに震えている。


「……よくやった、ティナ」

彼が、私の隣に膝をつき、その赤い瞳で優しく微笑んだ。

「君が猟犬を足止めしてくれたおかげで、完璧にうまくいった」


「……私、ちゃんと、できてた……?」


「ああ。最高の働きだった」

彼はそう言うと、私の頬にそっと触れた。岩陰に隠れていた時に、枝でかすめてしまったのだろう、小さな切り傷ができていた。

彼の指が、その傷を優しくなぞる。

「……すまない。怪我をさせてしまった」

その声は、心からの悔恨に満ちていた。


「ううん、大丈夫! こんなの、なんでもない!」

私は、慌てて首を横に振った。

彼の心配そうな顔を見ていると、それだけで、胸がいっぱいになる。

「それより……私、初めて、あなたの役に立てた……?」


彼は、一瞬だけ驚いたような顔をして、そして、すぐに、力強く頷いた。

「役に立ったどころじゃない。君は、俺の最高の“相棒”だ、ティナ」


“相棒”。

その言葉が、どんな賞賛よりも、私の心を温かくした。

もう、私は彼に守られるだけの存在じゃない。

彼の隣に立ち、共に戦う、対等なパートナーなのだ。

その事実が、何よりも嬉しくて、誇らしかった。


私たちは、気絶している斥候から、一枚の羊皮紙を見つけ出した。

それは、教会からの指令書だった。

そこには、私たちの特徴と共に、「生け捕りにせよ。特に、彼女が使役する“異界の存在”は、決して傷つけるな」と、はっきりと記されていた。


「……やっぱり、奴らの狙いは俺か」

彼は、苦々しげに呟く。


私の心に、新たな決意が芽生える。

彼が、私を守ってくれるように。

私も、彼を守れるくらい、強くならなければ。


私たちは、斥候を谷間に残し、再び東へと歩き始めた。

握りしめた彼の手は、さっきよりも、ずっと力強く感じられた。

それはきっと、私の中に、彼と“共に戦う”という、新しい覚悟が生まれたからだろう。

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