二章

第32話 夜と森と、最初の朝


どれくらい、そうしていたのだろう。

彼の胸の中で、私はただ泣きじゃくっていた。記憶の糸がぷつりと切れるまで、魂が空っぽになるまで、涙を流し続けた。

次に意識が浮上した時、私の耳に届いたのは、ぱち、ぱち、と静かに木が爆ぜる音と、遠くで鳴く夜鳥の声だけだった。


ゆっくりと瞼を開くと、視界に映ったのは、ごつごつとした岩肌の天井だった。

ひんやりとした空気が肌を撫で、私は自分が硬い地面の上に横たわっていることに気づく。私の体には、見慣れない、けれど上質な黒いマントがかけられていた。その生地からは、不思議と心が安らぐ、彼の匂いがした。


「……目が覚めたか」


静かな声に視線を向けると、彼は洞窟の入り口近くで、小さな焚き火の番をしていた。

ゆらめく炎が、その美しい横顔を照らし出している。

銀色の長髪、血のように赤い瞳。

闘技場ですべての人間を圧倒した、人ならざる者の姿。

けれど、その瞳が私に向けられる時、そこにはいつも、信じられないほどの優しさが宿るのだ。


「……ここは……?」

掠れた声で尋ねると、彼は立ち上がり、水筒を手にこちらへやってきた。


「王都から東へ、馬なら二日はかかる森の中だ。追手はすぐには来ないだろう」

彼は私の隣に膝をつき、水筒を差し出す。

「少し、飲んでおけ。喉が渇いてるだろ」


言われるがままに、震える手でそれを受け取り、口をつけた。

冷たい水が、乾ききった喉を潤していく。その、生きているという感覚が、逆に私の胸を締め付けた。

闘技場での出来事が、悪夢ではなかったという事実を、否応なく突きつけてくるからだ。


「……私……」

何と言えばいいのか分からなかった。

感謝も、謝罪も、後悔も、すべての感情が喉の奥で渦を巻いて、言葉にならない。

ただ、ぼろろと、また涙がこぼれ落ちた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……私のせいで、あなたまで……」

禁術で呼び出されただけの、本来ならこの世界の理の外にいるはずの彼を、私は「禁術使いの共犯者」として、王国中から追われる身にしてしまった。

彼ほどの力があれば、私さえ見捨てれば、どこへでも行けるはずなのに。


すると、彼は困ったように眉を下げて、そっと私の頬に触れた。

実体化した彼の手は、想像していたよりもずっと温かかった。

その指が、私の涙を優しく拭う。


「ティナ。その言葉は、もう言うな」

彼の赤い瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。その声は静かだが、有無を言わせない響きがあった。

「俺は、俺自身の意志で、君の隣にいることを選んだ。闘技場で君を守ったのも、こうして一緒に逃げ出したのも、全て俺がそうしたかったからだ。君が謝ることなんて、何一つない」


「でも……!」


「いいか?」

彼は、私の言葉を遮るように、諭すように言った。

「俺は、君がどんな存在かなんて、最初からどうでもよかった。君が悲劇のヒロインだろうと、悪役令嬢だろうと、ただの村娘だろうと。俺が惹かれたのは、“ティナ・エルヴェンス”という、一人の人間の魂だ。誰よりも努力家で、不器用で、本当は泣き虫で……それでも必死に前を向こうとする、その心にな」


彼の言葉一つ一つが、冷え切っていた私の心の奥に、小さな灯火をともしていくようだった。


「だから、君が禁術使いとして追われるなら、俺は喜んでその共犯者になるさ。君が世間から魔女と呼ばれるなら、俺は君を守る悪魔にでもなってやる。君がいる場所が、俺のいるべき場所なんだ。……分かってくれるか?」


最後だけ、私の反応を窺うような、少しだけ優しい響き。その問いに、私は首がちぎれるほど、何度も縦に振った。

分かる。分かりすぎるほどに。

こんなにも、心が救われたのは、生まれて初めてだった。

この世界で、たった一人。

私の肩書も、家柄も、才能も関係なく、ただ「私」という存在そのものを、肯定してくれる人。


「……ありがとう……」

ようやく絞り出した声は、まだ涙で濡れていたけれど、もう絶望の色はしていなかった。


その夜は、それ以上何も話さなかった。

彼は黙って焚き火の隣に戻り、私は彼のマントにくるまりながら、時折、その背中をじっと見つめていた。

不思議と、もう眠気は訪れなかった。

これからどうなるのか、という不安よりも、彼が隣にいてくれるという安心感が、心を穏やかに満たしていた。


やがて、洞窟の入り口から、夜の闇を溶かすように、朝の光が差し込んできた。

鳥のさえずりが聞こえる。

私たちの、逃亡者として迎える、最初の朝だった。


彼が焚き火の火を丁寧に消し終えると、私に向き直った。

その顔は、もう夜のような感傷的な雰囲気ではなく、現実を見据える、頼もしい指導者の顔に戻っていた。


「さて、ティナ。感傷に浸るのはここまでだ。ここからは、生きるための戦いが始まる」

彼は、洞窟の壁に立てかけておいた枝を拾い、地面に大雑把な地図を描き始めた。

その記憶の正確さは、まるで空からこの世界を眺めたことがあるかのようだった。


「俺たちがいるのは、おそらくこの辺り。王都騎士団が本格的な捜索隊を組織するには、早くても二、三日はかかるだろう。その間に、ここからさらに東へ向かう」


彼が指し示した先には、巨大な山脈が描かれていた。

「この山脈を越えれば、隣国との国境地帯だ。そこには、王国の法が及ばない、小さな自治都市がいくつかある。まずは、そこを目指そう」


それは、あまりにも壮大で、途方もない道のりに思えた。

私の不安を読み取ったのか、彼は悪戯っぽく笑う。

「もちろん、今のままじゃ無理だ。だから、まずは準備を整える。ここから半日ほど歩けば、小さな村があるはずなんだ。そこで食料と、何より、君の“新しい顔”を手に入れる」


「……新しい、顔?」


「ああ。その綺麗な薄紫の髪と、貴族のお嬢様だと一目でわかる服は、あまりにも目立ちすぎるからな」

彼はそう言うと、立ち上がって私に手を差し伸べた。

「大丈夫だ。全部、俺に任せろ。ティナはただ、俺を信じてついてきてくれればいい」


その手は、迷いのない力強さに満ちていた。

私は、その手を、今度はためらうことなく、固く握り返した。

もう泣かない。

俯かない。

彼が未来を示してくれるのなら、私はどこまでだって歩いていける。


「……うん。行く」

力強く頷くと、彼は満足そうに微笑んだ。


私たちは、洞窟の中に残っていた痕跡を、念入りに消し去った。

私がかけていた彼のマントは、私が羽織ることになった。深くフードを被れば、髪の色はほとんど見えなくなる。

私の人生のすべてだった、エルヴェンス家の紋章が入った剣は、未練を断ち切るように、洞獄の奥深くへと隠した。


朝日が完全に昇り、森が輝きを取り戻す頃。

私たちは、小さな洞窟を後にした。

もう、私は悲劇のヒロイン、ティナ・エルヴェンスではない。

名前も、過去も、帰る場所も失った、ただの逃亡者だ。


けれど、不思議と心は軽かった。

隣を歩く彼の存在が、失ったすべてのものよりも、ずっと大きく、温かい。

握りしめた彼の手の感触だけが、この広大で、残酷な世界で、私を支える唯一の真実だった。


私たちの、果てしない旅が、本当に始まった。

名もなき少女と、その共犯者となった、男。

二人の向かう先に何が待っているのか、今はまだ、誰も知らなかった。

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