対峙
由良川の対岸。二十間ほどの川面を挟み、渡辺綱の眼前に、白い肌の女が現れた。
綱は、その姿を冷たく見下ろし、言い放つ。
「お前に用はない。茨の鬼を呼べ。俺は、貴様のような小娘に興味はない」
蛍は何も言わず、河原のぬかるみに、ゆっくりと、しかし確かな意志を込めて、種子を撒いた。
そのとき、川面から、地底の獣が唸るような音が響き、大地が震える。
ぬかるみから発芽した茨の蔓は、まるで意志を持った生き物のように、互いに絡み合い、あっという間に細く、しかし頑丈な橋を、対岸まで架け渡した。
綱は、その光景に目を見張った。彼の目の前にいる女は、ただの小娘ではない。
「貴様が、茨の鬼か」
蛍は、綱を睨め付けたまま、その茨の橋を渡り、綱に対峙した。
「女を斬るは武士の恥。だが鬼ならば別だ。この鬼切丸で……」
綱は、ニヤリと笑うと、太刀の鯉口を切った。
しかし、蛍は、臆することなく言葉を紡ぐ。
「武器も持たぬ、敵意もない男を斬って、鬼斬りとは笑止」
その言葉は、まるで鋭い
彼の顔から、笑みが消える。
彼の胸に、あの日の光景が蘇る。京の貴族・右馬佐の、怯えきった顔。そして、彼が斬り落とした、その男の腕。
蛍に図星を突かれて、渡辺綱は、何も言えずに口を閉ざした。
綱は、胸に食い込んだ恥辱を振り払うように、獣のようなうめき声を上げて、刀を抜いた。その切っ先が、怒りに震えながら、下段から切り上げ、上段から切り降ろされる。
その電光の斬撃を、蛍は全て紙一重でかわす。笠が跳ね飛ぶ。
額の二本の角に綱が目をやる。と同時に、その顔を見据え、目を見開いた。
「まさか、貴様。おれの鬼の腕を奪った」
蛍は、その男の顔を見据え、憎しみと、そして悲しみが入り混じった瞳で、つぶやいた。
「ふたたび、あいまみえるとは。」
目の前にいるのは、主君、藤原宗輔の行方不明とされた娘。そしてあの日、鬼の腕という『栄光』を奪い去った、忘れようにも忘れられぬ、因縁の
「鬼め。鬼め! 鬼めーーーっ!」
綱は、まるで自身に言い聞かせるかのように叫び続けた。彼の叫びは、目の前の女が鬼であることを証明する叫びであり、同時に、己の過去の罪と向き合わぬための、自己欺瞞の叫びだった。
「貴様は、貴様は、姫を騙る鬼だ!」
綱は戦場で培い、日々重ねてきた鍛錬の積み重ねである術理を行使し、全力で剣を振るった。
「そのとおり。わたしは鬼になった。……藤原の名など、とうに捨てている。」
赤く妖しく光る蛍の眼には、綱の体内の気の流れが、まるで生きた川のように、はっきりと見えていた。筋肉が収縮し、気が流れ、刀が振られる……そのすべてが、ゆっくりと、鮮やかに映し出された。
蛍自身には、剣技も闘技もない。しかし行者達の格闘鍛錬を、気の流れを持って観察してきた眼には、 その気の流れがどこの
起点がわかりかつ、鬼にとってはあまりに遅いその剣戟を、蛍はただ息をするようにかわす。 綱の太刀が、彼女の頬をかすめ、髪をわずかに切り裂く。だが、彼女に焦りなどなかった。その動きは、まるで、風が柳を揺らすように、しなやかで、そして圧倒的だった。
そのとき、対岸の河原で、蹄の音が響いた。
由良川上流の浅瀬で渡河した十騎の騎馬武者が、苛立ちを顔ににじませて、黒装束の女たちに迫った。彼らは、女たちの投擲兵器が持つ射程と破壊力を知った。だからこそ、今度こそ確実に仕留めるべく、遠回りして奇襲を仕掛けたのだ。
先の戦闘で張られた茨の馬防柵をはさみ、対峙する。弓が確実に殺傷力を有する距離でもある。
騎馬武者は馬を降り、弓を構えた、流鏑馬ではなく確実に弓で戦う算段だ。馬防柵の上方を越えるように矢は射られようとしていた。
「構え!」小柴の指示が飛ぶ。 女たちは、震える手で、かねてより準備していた、太い孟宗竹を束ねた筏のような盾を、上空にかざした。空から飛来し、突き刺さる矢の音が、彼女たちの鼓膜を震わせる。
飛来した弓を防いだのち、小柴が指示する。
「放て!」女たちの
訓練された距離の正確さを以て、放物線を描いたいくつもの石は、まるで雹のように空から、騎馬武者たちの上へ、重く落下する。
ズシャン!
それは、点の攻撃ではない。彼らを包み込む、絶望の面制圧だった。
幾人もの騎馬武者と幾頭かの馬が、そこに斃れていた。何頭かの馬は恐怖に狂い、走り去っていく。
動けなくなり、呻きながらもがいている者も、頭を砕かれて即死した者もいた。
再び、小柴の声が響く。
「放て!」
ズシャン!
さらなる石礫が、騎馬武者のいた場所に降り注ぐ。
「ひいぃぃっ!」
恐怖の悲鳴を上げ、運良く難を逃れた騎馬武者が、弓を放り投げ、泥だらけになって上流に逃げ出した。彼らが振り返ることはなかった。そこには、京の精鋭たる騎馬武者の誇りなど、どこにもなかった。
対岸の様子に、渡辺綱は、怒りを込めて眉をひそめた。
「馬鹿者どもが!」
その言葉は、彼自身の焦りを隠すための、見せかけの強がりだった。
その隙に、茨が綱の下半身を絡め取る。蔓の棘が布を貫き、鋭い痛みが足の皮膚を裂いた。蛍は、綱の周囲にさらに種子を蒔く。
綱は鬼切丸をふるい、茨の蔓を切り落とすが、新たに発芽して延びてきた蔓に、今度は全身を絡め取られた。鎧に覆われていない、腕と顔の皮膚を、からみついた茨の棘が裂いた。
身動きが取れぬ綱に、ゆっくりと蛍が歩み寄る。
綱の手にがっちりと握られた、太刀、鬼切丸。
蛍がその手に気を注ぎ込むと、綱の意志に反し、まるで氷が溶けるかのように、その指は鬼切丸を手放した。
太刀を持ったこともない蛍が、稚拙に両手で太刀を構え、その切っ先を、左馬の仇である男の、喉元に置いた。
渡辺綱は、なすすべなく、ただ、その女の赤い瞳を見つめた。
「……これまでか。」
彼の口から、諦念の声が漏れた。
それは、京で最強と謳われた鬼斬りの、完璧な敗北だった。
綱の目には、もはや狂気の色はなかった。それは、完璧に打ち砕かれ、すべてを諦めた、静かな眼差しだった。
酒呑に敗れた時とは異なり、力を振るえなかったのではない。全力を尽くしてもなお、己は弱かったのだ。
「この刀で右馬佐を斬ったのか。」
「そうだ。」
「何故、斬った?」
「京の、朝廷の歴史と秩序を崩されぬためだ……いや、ちがう。」
綱は、死を眼前に、自らの心に巣食っていた妄執を振り払うかのように、はっきりと、言い直した。
「鬼に敗れた
綱の目を見て、蛍は、この男がいま真実を語っていることを悟った。
蛍の眼から、とめどなく涙がこぼれ落ちる。それは、左馬の死の真実を知ったことへの悲しみであり、そして、虚しい意地のために、無益な殺戮を繰り返してきた、目の前の男への憐憫だった。
「右馬佐が、最後に言い残していたことは?」
「我らの主君、頼光も、お前たちの首魁も『無為な争いは好んでいない。』と」
綱は、己をも騙そうとしてきた妄想から解き放たれ、無抵抗の男を斬ったという、紛れもない真実を認めた。それは、彼が鬼を切った日以来、初めて、人間に戻った瞬間だった。
「……無為な争いは好まない……そう。」
蛍は、つぶやくと。鬼切丸を河原の砂利に深く突き刺した。それは、この刀が再び、無為な争いのために振るわれないようにという願いだった。
彼女は、振り返ることなく、黒装束の兵の一団とともに、山へと歩き去った。
しばらくして、渡辺綱は、手下の徒武者に救い出された。
渡辺綱は、縛めが解かれたあとも、しばらく動けなかった。体に残る痛みが、むしろ心地よかった。それは、長年、彼を縛り付けていた虚栄と妄執が、とうとう、砕け散った後の、静かな安堵の痛みだった。
それは、彼が鬼を切った日以来、初めて、人間に戻った瞬間だった。
京の軍団は、大江山にたどり着くことなく、撤退し、帰還した。
・
その頃。京の大軍が通る山陰道を避け、山伏姿の一行が、大江山を目指していた。
源頼光、坂田金時、卜部季武、碓井貞光に加え、藤原保昌の五名であった。
頼光は、山伏姿で、はるか京を振り返った。我らが京を離れ、この道を急ぐのは、天皇の勅命を全うするため、そして、京の貴族たちの不信の目を逸らすため。いずれにせよ、この戦は、早く終わらせる必要がある。
碓井が眉を顰めて問う。
「綱さんの行軍が失敗すると思ってんのか?」
卜部は、まるで将棋盤を見るように、冷静に言った。
「五分五分だな。いや、七分三分か」
金時が不満げにいう。
「全然信用してねーじゃん」
藤原保昌は、静かに、しかし冷徹に答えた。
「成功すれば、それでよし。ダメならば、我らの策でという感だ。……いずれにせよ、京の面目は保たれる」
頼光は、彼らの言葉に頷き前を見据えた。
「いずれにせよ、我らは、この手で、この戦を終わらせねばならない」
彼の目には、もはや迷いはなかった。
それは、渡辺綱の力押しとは対極にある、静かで、しかし確実な、新たな戦いの始まりだった。
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