29話 天国と地獄

「えっと……俺が?希咲良がじゃなくて?」

「そう、私が優多君に耳かきしたいの」


 ……???


 希咲良から発せられた言葉を上手く飲み込むことが出来ない。言葉の意味は理解できても、脳が希咲良の言葉がおかしいとエラーを吐き続ける。


「えっと……え?」

「もう。ほら、早く横になって?」


 中々動かない俺に痺れを切らした希咲良は、頬を膨らませながらぽんぽんと自分の太ももを叩く。


「……ちょ、ちょっと待って欲しい。希咲良、今日は俺に何でも言う事を聞いてもらうために呼んだんだよな?」 

「そうだよ?それよりも早く横になって?あ、そっか。ベッドの方が楽だよね」

「まぁ横になるならそっちの方が……じゃなくて!こういうのは普通俺が耳かきをする側だよな!?」


 何事も無いかの様にベッドに腰かけた希咲良に向かって声を荒げる。


「……何でも言う事聞いてくれる約束だよね?」

「それはまぁ」

「約束、守ってくれないの?」

「……守るけどさぁ」

「じゃあ横になって?私は優多君に膝枕と耳かきをしてあげたいの」


 思考が追い付かない。俺はどこか別の世界に巻き込まれてしまったのか?……いや一回死んで別の世界に飛んでるっちゃ飛んでるんだけどさ。


「それとも優多君は……私に膝枕されるの嫌?」

「嫌じゃないです。むしろされたいくらいです」

「じゃあ問題無いよね?はい、横になってー?」


 に、逃げ道が無くなってしまったというか潰してしまった……。


 でもさぁ!?あんな悲しそうな顔で言われたら嫌だなんて言えるわけないじゃん!そもそも希咲良に膝枕されて嫌なわけないだろ。むしろされちゃっていいの?って感じだし……ん?そもそも逃げる必要性は無かったのでは?

 

「ほらはやく」

「……し、失礼します」


 ベッドに横になり、ぽんぽんと叩かれた希咲良の太ももへとゆっくり、慎重に頭を下ろす。


 ……や、やわこい!!


 スカート越しに伝わる熱と、息を吸う度に体へと取り込まれる希咲良の匂いのせいで、心臓は過去一うるさくなり、呼吸のリズムが大きく乱れる。嬉しいはずなのに、羞恥がその嬉しさを大きく上回る。


 逃げたい……今すぐにでも逃げ出したいっ!〇ョースター家に伝わる秘伝の戦法を使いたい!


「それじゃあ始めるね?」


 ビクッ!

 

 ひやああああ!手、手が!希咲良の手が俺の頭にぃいいいいいい!!

 

 希咲良の手が俺の頭に触れる。全神経が頭に移動したかのように、希咲良の手の冷たさや小さな指の動きに敏感になる。油断していると僅かな手の動きで体が大きく揺れそうだ。


 お、おおおお、落ち着け……こういう時は深呼吸を────


「っ!?!?」


 ビクッと体が大きく揺れる。


「優多君、危ないから暴れないで?」

「ご、ごめっ──っ!?」

 

 ぞわぞわとした感覚が耳から背中、そして腰へと走る。


 やばい……これはやばいっ!本当にやばい……!


 自分の耳の中を進んでいく棒状の物。それが少し動くだけでぞわぞわとした感覚が走り、今までに感じたことの無い快と不快が混ざった何かが、脳をピリピリとさせる。


 ぎゅっと体に力を入れないと体が大きく痙攣し、息を止めなければ希咲良に聞かせられない様な情けない声が漏れてしまう。


「大丈夫?痛くない?」

「だい……じょう、ぶ……」

「良かった、それじゃあ続けるね?」


 カリカリ……カリカリ……。


「っ……ぁ……」


 耳が、体が、脳がおかしくなっていく。ぞわぞわとした感覚に、俺の身体はビクンと跳ね、小さく声が漏れる。


 今すぐにでも逃げたい。しかし、今動いてしまえば自分の耳が大変なことになってしまうし、そもそも希咲良に頭を固定されているため逃げようにも逃げれない。


 呼吸のリズムが正常に戻らない。呼吸がどんどん浅くなっていく。体が熱い。心臓がうるさい。


 無理……もう無理!ギブ!死んじゃう!このままだと恥ずかしさで死んじゃううううう!!

 

 もう限界だ。そう思った次の瞬間、俺の右耳から耳かきが抜ける。


 お、終わり……?助かったぁ……。


 息を吐きながら体をゆっくりと弛緩させていく。


「ふぅ……」

「にょわぁ!?」


 身体の力が完全に抜けたその時、俺の耳に希咲良の息が吹き掛けられ、耳から腰へ、ゾクゾクとした何かが走る。


 身体の力と同時に心を緩めたせいで、俺は大きく体を揺らしながら素っ頓狂な声を上げてしまう。


「ふふっ、可愛い……ふぅ~」


 俺の反応を見て悪戯な笑みを浮かべた希咲良は、先ほどよりも近く、そして長く息を吹きかける。


 希咲良の吐息が、甘い声が、俺の脳をどろどろに溶かしていく。電流が流れているみたいに、ビクビクと体の震えが止まらない。


「き、希咲良っ……!」

 

 我慢の限界を迎えた俺は首をぐいっと動かし上を向く。

  

「ふふ、ごめんね?優多君の反応が可愛すぎてちょっと悪戯しすぎちゃった」


 希咲良と目が合う。次の瞬間、俺の体温が一気に上昇する。


 甘い匂い、普段とは違う少し色っぽい声、後頭部から伝わる希咲良の熱、自分の視界に映る希咲良の上半身と悪戯な笑み。


 五感を通して伝わる情報が、今自分がどういう状況にあるのかを再認識させ、心拍数と体温を上昇させる。


「ふふ、優多君は偉いね」


 希咲良の華奢な手が俺の頭を優しく撫でる。


 恥ずかしい、嬉しい、恥ずかしい、嬉しい。


 二つの感情が交互に押し寄せる。


 逃げたい、もっと撫でて貰いたい、逃げたい、もっと撫でて貰いたい。


 二つの言葉が脳を支配する。


 やばい……このままだと本当に頭がおかしくなるっ!


 限界を迎えた俺は、希咲良から逃げるように寝返りを打つ。


「き、希咲良……その……」

「んー?どうしたの?」 

「いやその、頭を撫でるのはちょっと……」

「何でもお願い、聞いてくれるんだよね?」

「そうは言ったけど……流石にこれ以上は──」

「だーめ」


 ────っ!?!?


 再び温かい風が耳を襲う。希咲良から逃げるように顔を背けたのが気に障ったのか、希咲良は意地悪をするように俺の右耳をくにくにといじったり、つぅと指でなぞったりする。


 ぞわぞわとしたあの感覚が再び体を支配する。何度も何度も体験した、それなのに全く慣れない感覚に俺の身体はびくりと跳ね、声が漏れる。

 

「ふぅ~……よし、右耳終わり」


 終わった……色々な物が……終わった……。


 とてつもない疲労感に襲われ、体は鉛の様に重い。しかし、天国の様で地獄の時間、それがついに終わりを迎える。


「それじゃあ優多君、次は左耳ね?」

 

 そして始まりを迎えようとしていた。

 

「ほら、大人しく私の指示に従って?そうすれば気持ち良くなれるから……ね?」

 

 ……だ、誰か助けてええええ!


 天国と地獄の狭間で、優多は声にならない声をあげるのだった。

 

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