第5話 原生林 (2025年8月20日大幅改変)

 原生林。

 そう呼ばれているのが、この森である。

 最低でも二千年前から存在するとされ、この星で最も巨大な人工物の根元に生える、最も歴史のある原生林。

 それは塔から一キロメートルから八百メートルほどの位置、つまり塔から川がある土地まで密集してして存在している。

 そこは塔へと向かう人々にとっての最初の関門となる場所だった。


「すっげ……」


 頭上を見上げながら、ライオは感嘆の声を出した。

 森の中は暗い。遥か頭上にある木々の葉が、地上に来る前に陽光をすべてのみこんでしまっているからである。


「一個何メートルあるんだ、これ……うわっ」

「ライオさんっ、足元に気を付けないと危ないですよ!」


 危うく転びそうになったライオの襟を、シーズがひっつかんで何とか止めた。


「しっかり警戒しないと。見とれるのはわかりますけど、危険でもありますからね、ここは」

「わ、わかった」


 姿勢を正してライオは再び歩き出した。

 するとシーズが口を開いた。


「だいたい、ここら辺の木の高さは三十メートルほどでしょうか」


 ――あ、教えてくれるんだ。

 そうライオは思った。

 シーズはすぐ近くの一本の大木に近づき、そこに手を触れる。


「三十六メートル……。樹齢は二千年よりちょっと若いくらいですかね。比較的新しい部類の木です」


 シーズが触れたのは、いたるところにひびが入り、年季のありそうな古い大木だ。

 ライオは目を丸くした。


「これが若いの?」

「はい。ものによっては五千年とか、そのくらいの木があることもあります。もう少し奥の方にはなりますが」


 シーズはそう言って、木から手を離して踵を返した。


「ほら、行きますよ。ライオさんは先頭。私はしんがりにつきますので」

「分かった」

「はーい」


 ライオとエナが返事をして、再び一同は歩を進めた。


「あんなに人がいたのに、誰とも出会わないね」


 ぽつりと歩いている間にエナがそう言う。

 確かに、とライオもうなずいた。


「三十二人と大人もいたよな。別々のところから入るって言っても向かってる先は同じなのに」

「固まっていると何かあった時全滅になりかねませんからね」


 シーズが答えた。


「多人数だと何かあった時に統制がとれずパニックになりかねないですからね。人間の習性として、動揺は全員に伝播しますので」


 ほーん、とライオは鼻を鳴らして、頭の後ろで手を組んだ。


「そんなことまで知ってるんだ。意外」

「ねー」


 エナも同様に鼻を鳴らした。


「あの、だからわたしのことなんだと思ってるんですか……」


 そう言って、はあ、とシーズはため息をついた。


「ん?」


 そして、ぴくりとその目が動いた。


「シーさん? どうしたの?」


 それに気が付いたエナが、ぴたりと足を止めた。


「え? 何が?」


 ライオも同様、シーズを振り返る。

 シーズはあたりを見渡していた。それも、主に進行方向の右側を。

 きょろきょろと顔を見回して、そのまま口を開き二人に声をかける。


「二人とも、何か聞こえませんか?」

「え? 聞こえないけど」

「何かあったの?」

「いや……」


 シーズが口を開きかけて、それから開いた状態で止めた。

 ぴくりと、その目が再び小さく動く。


「止まってください」

「シーさん? どうし」

「しっ」


 エナが言い終わらぬうちにシーズが口元に指を当てる。

 二人は口をつぐんで、そして自然に耳を澄ませた。


 ――何も聞こえない……


 ライオがそう思った。

 あるのは木々がざわめく音ばかりだ。しいて言うなら虫の鳴く音。それのどこに違和感があるというのだろうか。シーさんはいったい何を勘付いたのだろう?

 もしかして、何か危険なことが?

 そう思った直後、


「あ……」


 シーズがそう口にした。


「ど、どうしたの?」


 エナが口を開いた。


「誰かが襲われたみたいです」

「「えっ……?」」


 ぴしり、と。二人の声が重なった。


「少しまずいかもしれません。距離は百メートルもない。走りましょう。バレているかも」

「え、バレているって?」


 エナが声を上ずらせて聞いた。


「生き物です。走って!」

「生き物……!?」


 棒に突かれた球のように、二人は走り始めた。


「足元に気を付けて、絶対に転ばないで!」


 がさがさと、三つの人影が森の中を突っ切っていく。


「っ、うんっ」


 エナは返事をしたが、そもそも足元など見えないに等しかった。

 そもそもが人の手がほとんどついていない原生林。

 子供の身長からすれば、胸ほどまでの草木が生えている。


「ああっ、くそっ」


 シーズがそう言った。

 初めて聞いた彼女の暴言に、二人の子供は目を見開き振り返る。


 ――もうすぐそこにいるのか? でも、まだ何も聞こえない……。


 ライオは走りながら必死に耳を澄ました。

 自分たちが草木をかき分ける音以外何もわからない。なぜシーさんはわかっているのだろう。そして、俺たちは今いったい何に追われてるんだ……?

 かちゃり、とシーズは銃帯から武器を取り出した。

 それは旧式の空気圧式の銃。


「走って! 向こうから来てる!」


 シーズはそう言って進行方向の右を指さした。


「ずっと走って止まるな!」


 その口調から丁寧さが消えた。


「はっ、くっ、ふっ」


 ライオはすでに自分の肺が裂けそうになっているのを感じた。

 そもそもが子供の体力。

 そして冒険のための荷物、腰に下げた慣れない武器。

 素の状態ならまだしも、子供にとってはきついおもりがいくつもついていた。


「せめてあと少しだけ走ってください!」

「少し、って」

「向こうが私たちと並走するくらいになるまで!」

「なに、が」

「あっ」


 エナが小さくつぶやいた。

 彼女は右へと目を向けていた。

 その目に、その姿が映ったのだった。

 目に入った情報で、エナは一瞬にして思考する。


 ――何? オオカミ? いや違う、まず四足歩行? 


 よく見えない。木々の向こうで何度も姿が隠れる。

 しかし下が見える。大型だ。オオカミよりも大きな。はやい。走ってる。

 色はわからない。黒か、茶か。明るい色では決してない。だったら、哺乳類? しかしどれもピンとこない。

 一体なんだ、頭をぐるぐる働かせる。

 冒険家ライセンスの取得試験で何百もの塔の生物を習ったはず。あれはなんだ? 一体何が来ている? 森の中で見られる大型の生き物と言ったら、確か――――


アカゴノウマ赤子の馬……」


 エナの思考はほんの一瞬。しかし、それが追いついてくるのにも一瞬があれば十分だった。

 ほんの一息、瞬き数回の時間で、それはぐんぐんとこちらに近づいてくる。


「ひっ」


 エナは、自分の臓腑が一転してひっくり返る感覚を覚えた。

 それは巨大だった。ものすごく。

 大人くらいの大きさかと思ったら、それはまるで、馬が立ち上がったような大きさで。


「イァアァアアア」


 まるで赤子が泣くように、ゆがんだ人の顔が、そこ頭部で鳴いていた。

 そして、それは、もう、すぐそこまで。

 姿を認識してからほんの数秒で、ほんの少しの距離まで。

 エナの顔にその影が落ちるほどの距離まで、近づいてきていた。


 ドウンッ


 轟音が響いた。

 腹の底を揺さぶるかのような音。

 エナは自分からだがびしりと硬直するのを感じた。

 そして足元の何かに躓き、浮遊感を憶える。


「あっ」


 体全体を地面にぶつけた。

 ばしんと痛みで頭がいっぱいになる。

 がささっとおとがした。

 何かが走っていくような音。それに紛れてウマの蹄がたてるような音も聞こえた。


「いっ……」


 全身がびりびり痛んで動けない。それでも何とか手を地面について起き上がる。


「何が……」

「動かないでください」


 シーズの声がした。体がびしりと硬直する。


「仕留められませんでした。頭部をかすったけど……」

「仕留められなかったって、何を」


 エナはあたりを見回した。

 もうすでに周りには何もない。そして静かだった。

 ただ自分の心臓と、耳がキーンとなる音だけが、脳のうちにやかましく響いている。

 がちゃりとした音。

 見ると、ライオが銃帯からこどもリーズガンを取り出しているところだった。

 スイッチを切り替え、『安全』だったのを『発射』状態にする。

 またドオンと音がした。シーズが振り返って銃を撃った音だった。

 二人の頭上を、音速の数倍にも加速された金属弾が通過していく。

 チューンと音がして、金属弾が森の奥へと吸われ、どこかの木に当たったことを告げた。

 その『何か』を仕留められなかったのだろう。エナはそう直感した。

 いや、『何か』じゃない。わかっている。あれはどんなものか。ライセンスの試験でも、あれを自分は見たことがある。

 しかしあまりにも異質だった。紙の上で見た時にも気持ち悪いとは思ったが、現実で見るそれはまるで別物で、本当にまるで化物のようで。


 エナの脳内が錯綜している間。そこから数十メートル離れた位置。

その『何か』が森の中で何かを拾い、そして腕を閃かせたことに誰も気が付かなかった。


「がっ」


 鈍い音がした。


「え?」


 エナの前にどさりと倒れる音。

 それは、見慣れた顔だった。


「シーズさん?」


 だらんと表情を失った顔。焦点を得ていない目。

 ごとり、と彼女の手から滑り落ちる旧式の圧縮銃。

 全身から血の気が引く。世界のすべてがシーズの体を除いて見えなくなるような感覚。


 シーさんが、倒れた。

 え、死んだ? 死んでしまった?

 それはともかく、動けなくなった。

 今、この状態でこのピンチの中で


 がくがくと手が震えて、息がはやくなる。しかしまるで酸素を取り込んでいないかのように、肺は勝手に収縮だけを繰り返して。

 彼女のすぐ後ろに、巨体が迫っていることに全く気が付けなかった。


「エナ!!」


 聞きなれた声が自分を呼ぶのが聞こえた。

 眼球だけを素早く動かしてそちらを見ると、ぼんやりと薄れた姿で見慣れた顔を認識することができた。

 影が落ちている。自分のいる場所とライオに影が落ちている。

 わたしの後ろに何かが迫っている。

 たぶん、あの化物が。

 そしてライオが膝をついて、手に何かを持って、まっすぐ自分の頭上に向かって腕を伸ばしている。

 そして圧縮された時間の中で、カチリと音がした。

 閃光が走った。エナの頭上で。


「ギャッ」


 赤子が叫んだようなつぶれた声がエナの鼓膜に届く。

 まるで突き動かされるように、エナは後ろを振り向いていた。

 突風。自分のすぐそばを何かの巨体が通り去ったような風。


「うっ」


 そしてひどい匂い。野生動物特有の血なまぐさい獣臭。

 さらに、ドッドッとウマにしては数が足りない規則的な蹄の音。

 そちらの方を見ると、ついさっきよりは晴れた視界で、何かの巨体が走り去っていくのが分かった。

 その走っている様子はよてもぎこちなくて、よろよろとしていて、あ、今木に体をぶつけたなとすぐに分かるほどで。


「エナ! 大丈夫か!?」


 キーンと張った聴覚の中に、友人の聞きなれた声だけがはっきりと響いた。


「っ、ライオ……」

「エナ大丈夫か? 生きてるよな? 無事だよな」


 ゆっくりと顔を動かして、エナはその声の発生源を見た。

 見慣れた顔。焦ったような顔。

 まだ理解が追いつかない。おそらく今この友人が、その『何か』追い払ってくれたのだろう。

 しかしまだ『何が起こったんだろう』という思考が頭を支配してきて、どうしようもなかった。


 なにが、起きて。


「くそっ」


 視界の中で、ライオは腕をまっすぐ上に伸ばした。

 そして、かちっ、かちっとした、さっきも聞いたような音。

 それは空へと打ち上げるリーズガンの光。煙信弾の変わり、三回打てば救難信号となる。


 そうだ、救難信号、いま、わたしたちは……。


「シーさん……!」


 そうだ、シーさんはどうなったんだろう。


 そこでエナの思考はようやく回復した。

 バッと顔を向けると、すでにそこにはライオが寄り添っていた。

 倒れている。目が開いている。血が出ていた。頭部からの流血。何が当たったのだろう。


「アカゴノウマって石とか投げてくるってマジかよ……!」


 ライオがそう聞いて、ようやくエナも理解ができた。

 カバンを下ろしてごそごそと何かを取り出すライオ。

 それは応急処置の医療器具だった。包帯やガーゼに消毒液、少しの生理食塩水。

 血をふき取り、傷口を洗って、ガーゼを当てて、包帯を巻きつける。その動作を、ライオは少しぎこちなさがありつつも、数分以内で終わらせて見せた。


 その間、エナには現実が戻って来つつあった。

 自分の心臓と肺以外の感覚が戻ってくる。

 皮膚が熱くて、ぐっしょりとわきの下と胸元が汗で塗れていて、自分がどれだけ浅い呼吸をしていたのかに気が付く。


「ライオ……」

「なんだ? 大丈夫か?」

「わかんな、あ……」


 のどが渇いている。何も声が出てこない。

 ようやくごくりとつばを飲み込むと、砂漠のように乾いた喉にそれがしみ込んでいくのを感じた。


「シーさん、どうするの」

「背負ってくしかねぇだろ。交代交代で行くぞ。その代わり俺のカバンは頼んだぞ」


 そう言って、ライオは倒れたシーズの腕をもって肩に回し、ぐっと力を籠める。


「くっ、エナ、手伝ってくれ。重い」

「う、うん」


 エナが手を添え、シーズの脇を支えて押し上げる。


「うっ、ぐっ……おもっ……」


 それから何とかライオがシーズの腿を手にして、エナが後ろから押し、その体を背負いあげることができた。


「いく、ぞっ……!」

「う、うん……っ」


 エナはライオのカバンを抱えるように背負って立ち上がる。

 ライオが一歩一歩、ずっしりと踏みしめるように歩いて行く。

 その横を、エナは歩幅をあわせるように、ゆっくりとついて行った。


「あの、ライオ」

「っ、な、なんだっ」

「あの、さっきの、あれって」

「あ? アカゴノウマっ、だろ? ライセンスの試験でもっ、ふっ、やっただろっ」

「……だよね」

「ていうかあんましゃべりかけるなっ、うごけっ、なくなるっ」

「あ、ごめんっ……」


 ライオから目をはずして、エナはかちゃりと自分の銃帯からこどもリーズガンを取り出した。


 まだ、それはそこにあった。

 それを見て、エナは自分の心がぎゅっと狭まるのを感じた。

 自らの眉間に、そっと皺が寄る。


(……なにも、できなかったなぁ……)


 ようやく、頭が振り返る冷静さを取り戻した。


 自分は銃を取り出すことすらできなかった。

 それどころか、何が起こっていたのかの認識すら、全くできていなかった。


 シーズさんが倒れて、ライオが助けてくれて……。


 自らを守ってくれる存在が倒れた瞬間に、自分は恐怖に包まれて、それどころか『もう終わりだ』とすら思って。

 そもそも自分で何かを何とかする発想すらなくって。ただずっと守られていて、シーさんに、ライオに守られることしかできなくって。

 その後の応急処置も、結局ライオがすべてやってくれている。


「あの、ライオ」

「なんだよっ!?」

「わたし、背負おうか」

「いや、いいよっ、まだ背負ったばかりだろっ」

「……うん」


 ……ふがいない。

 ほんとに何もできていない。

 最初っから最後まで、なにも。


 手にしたこどもリーズガンのボタンがまだ『安全』になっているのに気が付いて、エナはようやくそのスイッチを切り替えた。

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