第25話 誤解

「いいかい?二人ともくれぐれも気をつけるんだよ」


静かに念を押す先生の声には、本当に私たちを気遣う誠実さが滲んでいます。

潔白を確かめるためとはいえ、こんな良い先生に疑いをかけてしまう自分があまりにも馬鹿げているように思えました。

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視点表示 ♤:ジュナ ♡:フリージア ♧:セピア


25 -誤解


ムギはぴょんと跳ねて水たまりを避け、濡れた草をふわりと踏みしめて進んでいきます。

そのしなやかな背に指先を添えると、ぴくりと小さな頭を持ち上げ、はちみつを淡く透かしたようなやわらかな金の瞳で、こちらを見返してくれました。


そのすぐ傍らを、教会の龍造犬シェパードが同じ道を進んでいます。

足音は一定のリズムで金属音のように硬く、濡れた地面も水たまりも意に介さず、泥水が体に跳ねても微動だにしません。

視線はただ前方に固定され、赤く点灯した瞳には喜びも恐怖もなく、心の奥から湧き上がるものなど何ひとつ映してはいないようでした。


もっとも考えてみれば、これこそが龍造人形と呼ばれるものです。

だから今こうしてムギが私の手に頭を預けてそっと甘えてくるのは、不思議なことに思えます。通常の龍造人形は命じられた通りにのみ動きますが、ムギはやはり特別な存在のようです。



扉を開け訓練場に戻ると、先に帰っていた学友たちが、横目でそっとこちらをうかがうように視線を向けていました。

その微妙な距離感を意識しながら、私は皆に声をかけます。


「お待たせいたしました。雨宿りのため蔵に立ち寄っておりましたので、少々遅くなってしまいました」


いつもなら誰かがすぐに言葉を返してくれる……そう期待していたのは、私の思い上がりだったのでしょうか。

皆、微笑みを浮かべているものの、誰もがどこか逃げ場を探すように視線を彷徨わせています。


私は不安に駆られ、気づけばティアナを頼るように探していた。

彼女と目があったその瞬間、期待に胸が膨らむよりも早く、ひどく怯えたように肩を震わせて視線を壁の向こうへ逃したのです。


いったい何が起きているのでしょうか。

理由はわかりませんが、あのティアナまでも私を避けるのです。私は知らず知らずのうちに越えてはならない線を踏み越えてしまったようです。


しかし、ここは皆の前。決して動揺を顔に出してはいけません。

誰にも悟られぬよう静かに息を整え、何事もなかったかのように口元に笑みを浮かべてみせます。


(足先の感覚が消えて……私今、堂々と立っていられるでしょうか。

頬の皮膚も痺れて……表情は、きちんと作れているでしょうか)


自分の鼓動だけがやけに大きく響く中、訓練場の扉が静かに施錠され、

カリオン先生の穏やかな声が部屋の空気を満たしていきます。

その温もりに触れた瞬間、張りつめていた肺がようやく息を許してくれました。


「皆さん、ごめんなさい。先ほどの雨で、昼食もまだでしたね。

ここで食べるのも味気ないでしょうから、食堂や屋上、自室など——どこで召し上がるかは各自の判断に任せます。

こちらには、朱鯉池しゅりいけへ持って行けるよう用意させたサンドイッチがあります。食べたい方は、どうぞ遠慮なくお取りください。

急ではありますが、今日の授業はこれで終わります。

来週からは通常の授業に戻りますので皆さんゆっくり体を休めてくださいね。」


カリオン先生が螺旋階段を上がっていくと、合図でもあったかのように、ティアナを含む皆が一斉に動き出しました。

机に並んだサンドイッチを惜しそうに眺める者もいましたが、全員が訓練場から去っていき、足音が次第に遠ざかっていきます。


こうして静かになった訓練場に私とジュナ様だけが残されていました。



♦︎♢♦︎



訓練場に備えられた更衣室で着替えを済ませ、

サンドイッチの三切れを小皿に移して、訓練場の隅にある長い椅子にジュナ様と腰を下ろしました。


「フリージアさん、すまない。

みんなの態度がおかしかったのは、きっと僕のせいだ。

僕と一緒に行動したから避けられたんだと思う。」


サンドイッチには瑞々しいレタスに熟したトマト、そしてとろりとした卵が贅沢に、はみ出るほどに挟まれていました。

私はそれを一口頬張り、ジュナ様の思い違いを静かに正しました。


「ジュナ様、それは違います。仮にそれが正しかったとしても、この責任は私のものです」


「君もわかっているはずだろう?

表向きは……いや、これは表向きと言うべきか、この学院は龍の力を制御する術を学ぶ場とされている。

だが真の目的は、高い成績を収めて、よりグレードの高い王侯貴族と婚姻することだ。だから皆、変な噂を嫌って僕を避けてる」


おそらく私は何も考えてないように思われたのかもしれません。ジュナ様は幼子を諭すように切実な口調で話されました。


「もちろん、承知しています」

私はゆっくりと首を振り、言葉を飲み込みました。

学院で出される料理は、家での食事よりもずっと豪華です。皆の家でも、普段はこれくらいのものを召し上がっているのでしょうか。


「わかってない。全然わかってないよ、フリージアさん」

長椅子から立ち上がったジュナ様は、喉を詰まらせながらも懸命に話し続けられました。

「僕は副伯の経済状況があまり良くないことを知ってるんだ……できるだけグレードの高い王侯貴族と婚姻した方が貢税は軽くなるし、持参金も桁が違ってくる。変な噂が広がってグレードが下がれば、家の負担は計り知れないだろ?」


「ジュナ様、それも重々承知しています」

ジュナ様に怒りを示すのは、慎むべきことです。

本心から私の家を案じてくださっているのですから。

私は小皿を置き、背筋を伸ばして誰もいない正面を見据え、声をできるだけ抑えました。


「本音を言えば、確かに高いグレードの婿を迎えれば財政は潤うでしょう。

ですが、ヴァルファルド家は代々、その個人――つまり人の器に価値を置いてきました。

金で誇りを量ることは、家の矜持が許しません。

私の祖母も母も、清貧を笑う者に頭を下げるくらいなら、敵を増やす道を選んできました」


その血を継ぐ者として、私は毅然とした態度で言葉を紡ぎます。

「そして、私も同様です」



(……少し、言葉が過ぎたかもしれません)

訓練場の壁――名は確か『龍牢』といいましたか。

血管のように細かい赤い筋が壁全体を覆い尽くす光景は、絢爛というにはあまりに不気味で、本来ならすぐにでも視線を外したいはずなのに……今はどうしても逸らせません。

ジュナ様はしばらく無言のまま立ち尽くしておられましたが、やがて長椅子に腰を下ろされるわずかな衣擦れが隣からそっと伝わってきます。


浅く息をつき、静まり返った訓練場に小さな声が落ちました。


「フリージアさん、僕にはまだ知らねばならないことが山ほどあるようです。あなたの前で無知を晒してしまいました」


「そんなことはありません。これから少しずつ学んでいけば良いだけのことです。

それに、私の方こそジュナ様に未熟なところをお見せしてしまったことがたくさんあります。

むしろ私の方が知らないことだらけですから、もし無知の重さを量れるならきっと私の方がずっしりですよ」


「なんですか、それ」


私は重々しく真剣に答えたつもりでしたが、ジュナ様の声には明らかに笑みが滲んでいます。

少し戸惑いは覚えつつも――まあ、元気になってくださったのなら、今回は目をつむることにしましょう。



♦︎♢♦︎


ジュナ様は訓練場で武芸の稽古があるため、私はひとり螺旋階段を上っていました。

そういえば学院に戻ってから、ムギの姿を見かけません。外で放してもらっているのでしょうか。

その想像に、ふと口元がゆるみます。

狭い学院に閉じこめておくよりも、巡礼者が集う教会で多くの人に撫でてもらえる方が、あの子にとっては何よりの幸せに違いありません。


『北棟:学舎』二階の曲がり角をいくつも抜け、最奥の事務室へ向かいました。

壁際には磨き上げられた騎士像が等間隔に並び鈍い光を返しています。

その近くでは、カリオン先生の部屋を護るように、二頭の龍造犬シェパードが息を潜めて座っていました。

私はそちらに目を留めることもなく、その前を通り過ぎ、事務室の扉をそっと叩きました。


セピアの証言を信じられるわけではありませんし、先生の不正を暴こうなどという大義を抱いているわけでもありません。

ただ、念のために事実を確かめたい。そのためだけにここまで来たのです。



「はい、何かご用でしょうか」


四角い眼鏡をかけた男性が、用心深そうな表情を浮かべながら事務室から出てこられました。


あら……?

この方は始業式で一度お見かけしたことがあります。そう、経理担当のキノックス・ガラニスさんです。

私はこの幸運を逃すまいと、何度も練習してきた台詞を口にしました。


「ガラニスさん、カリオン先生の資金簿を拝見させていただけますか」


「……っえ?」

ガラニスさんの眉間がより一層深くなります。

ああ、やってしまいました。私は、今度は間違いないようにゆっくりお願いします。


「名乗りもせず失礼しました。189期生、フリージア・ヴァルファルドです。お手数をおかけしますが、カリオン先生の資金簿を拝見させていただけますか」


ガラニスさんは腕を組み、黙ったままこちらを目を離さずにいます。どうしたのでしょうか……少し不安になります。


「ご無礼をお許しください。以前、どこかでお目にかかったことがあったでしょうか」

意図が読み取れず戸惑いますが、お願いする立場にある以上、素直に答えました。


「変煙儀式の折に一度。一般生徒を連れて教会から退出された際、自己紹介されていました」


「そうだったのかな……?」

しばらく視線を彷徨わせた後、再び眼鏡越しにこちらを覗き込みます。もしかして私、怪しまれているのでしょうか。


「龍の子のみなさんと関わる機会は滅多にないので、自分の名前を呼ばれて驚きました。ええと、要件は何でしたっけ?」


疑われているかもしれないと思うと、どうしても落ち着けません。

左手の指輪をそっと指先で転がしながら、私は言葉を絞り出しました。

「カリオン先生の資金簿です」


「ああ、なるほど。君もそうなのかい?」

ガラニスさんは腑に落ちたように微笑を広げ、声にはからかうような含み笑いが混ざっていました。どういう意味でしょうか。


「君もカリオン先生に夢中ってわけだね?

困ったものだよ。以前にも先生が持っていないものを贈りたいから資金簿を見せろって言われてね。僕は数字の流れを覗いたところで意味なんてないと説明したんだけど、聞く耳を持たなくて……結局、見せる羽目になったんだ。

抵抗したせいで、あの押し問答だけで半刻約一時間も費やしてしまったよ」


「ち、違います!」

突然のことで、思わず声を荒げてしまいました。

そんな破廉恥な理由で先生の個人情報を調べようなどとは、決して思っていません。

しかし、事情をすべてお話するわけにもいかず、私は口ごもりながら必死に言い訳を探しました。

「その……一身上の都合で詳しくは申し上げられませんが、どうしても調べなくてはならないことがあって——」


「いいから、いいから。恋は人を盲目にさせるってことを僕は身をもって体験したんだ。もう同じ轍は踏まないさ。どうぞ中に入ってください。資金簿を見れば、すぐに意味がないってわかりますよ」


私の言葉を遮り、ガラニスさんは事務室へと歩を返されました。

いったい、あの方の目には私がどのように映っているのでしょう……。


いいえ、

カリオン先生の潔白さえ明らかになれば、この食い違いもきっと説明できるはずです。それまでは、余計な言葉を重ねぬほうが賢明でしょう。

私は胸の奥にその思いを押しとどめ、渋々その背を追いました。

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