静寂という名の拷問

日曜日の朝は、気怠い沈黙と共に訪れた。


昨夜、あれから俺と蓮は一言も言葉を交わさなかった。俺はベッドで、蓮はソファで、まるで墓石のように動かないまま、長い夜が明けるのを待っていた。眠れたのか、眠れなかったのか、それすらも曖昧だった。


蓮がトイレに立つかすかな物音で、俺は意識を覚醒させた。

時計は午前10時を回っている。カーテンの向こうは、昨日と同じ、何の変哲もない週末の空が広がっているはずだ。だが、俺たちにはその青空を享受する資格すらない。


リビングへ行くと、蓮はすでにソファに座り、膝を抱えていた。まるで、そこが彼の定位置であるかのように。


「……何か、食うか」


俺は、冷蔵庫を開けながら尋ねた。中には、卵と牛乳、それにいつ買ったか分からない萎びた野菜が少しあるだけ。


「……食欲、ない」

「だろうな。俺もだ」


それでも、何か腹に入れなければ、思考まで停止してしまいそうだった。俺は二つのマグカップに牛乳を注ぎ、一つを蓮の前のローテーブルに置く。


「……コーヒーと、牛乳、どっちがいい?」

「……牛乳でいい」


彼の返事を聞いて、俺は自分の分にだけ、インスタントコーヒーの粉を溶かした。苦い香りが、淀んだ部屋の空気にわずかな変化を与える。


俺たちは、向かい合ったまま、黙ってマグカップを傾けた。

テレビはついていない。音楽も流れていない。部屋を支配しているのは、冷蔵庫のモーター音と、壁の時計が秒針を刻む音、そして、時折聞こえる窓の外の車の走行音だけ。


この静寂が、まるで拷問のようだった。

何かを話さなければという焦りが、喉の奥にへばりついて息苦しい。だが、何を話せばいい? 昨日のバラエティ番組の話か? 天気の話か? そんな会話、今の俺たちにできるはずもなかった。


「……なあ」


不意に、蓮が口を開いた。


「……拓也はさ、なんで、俺を……」

「やめろ」


俺は、蓮の言葉を遮った。その先を、聞きたくなかった。

なぜ匿ったのか。そんな問いに、俺はまだ答えられない。いや、本当は答えを知っているのかもしれない。だが、それを言葉にしてしまったら、もう本当に後戻りができなくなる。そんな気がした。


「……その話は、するな」

「……ごめん」


蓮は、またすぐに黙り込んだ。

俺はマグカップに残っていたぬるいコーヒーを飲み干すと、立ち上がった。


「……掃除、するか」


何か、身体を動かしていないと、おかしくなってしまいそうだった。

俺はクローゼットから掃除機を引っ張り出し、コンセントを繋ぐ。スイッチを入れると、ゴォォッという轟音が、部屋の静寂を暴力的に破壊した。


わざと大きな音を立てるように、乱暴に掃除機をかける。

意味もなく、何度も同じ場所を往復する。

ソファの周りを掃除しようとした時、蓮が慌てたように足を上げた。その瞬間、俺たちの視線が、一瞬だけ交錯した。


蓮の瞳に浮かんでいたのは、怯えと、そして、どうしようもない罪悪感の色だった。


掃除機を止めると、部屋は再び、静寂に包まれた。だが、さっきまでの息苦しい沈黙とは、少しだけ質が変わっているように感じられた。


「……なあ」


今度は、俺から話しかけていた。


「……お前、これからどうするつもりだったんだ。俺のところに来なかったら」


蓮は、少しだけ考える素振りを見せた後、力なく笑った。


「……さあな。……何も、考えてなかった」

「……」

「ただ、拓也の顔が見たいって、それだけだったのかもしれない」


その言葉は、何の飾り気もなく、すとんと俺の中に落ちてきた。


こいつは、人を殺した。

それは、決して許されることではない。

だが、そんな大罪を犯した男が、最後に頼ろうとしたのが、この俺だった。


その事実が、重い鎖のように、俺の心に絡みついてくる。


「……そうか」


俺は、それ以上何も言えなかった。

窓の外が、ゆっくりとオレンジ色に染まり始めていた。

地獄の週末が、もうすぐ終わる。明日になれば、また会社という名の『日常』に逃げ込むことができる。


だが、その日常が、もはや偽りのものでしかないことを、俺は嫌というほど思い知らされていた。


俺はゴミ袋の口を縛りながら、蓮に告げた。

「明日の朝、ゴミ出すついでに、食料買ってくる。何かいるもんあるか?」

「……いや、何でもいい」

「……」


この閉鎖された空間で、俺たちは、いつの間にか『飼育者』と『被飼育者』のような、奇妙な共存関係を築き始めていた。


そして、その事実に、俺は安堵している自分と、激しい嫌悪感を抱いている自分の両方がいることに、気づいてしまっていた。

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