共犯者たちの食卓

「……おかえり」


その声に、俺の全身を縛り付けていた緊張の糸が、少しだけ緩んだ。

よかった。蓮は、ここにいる。まだ、何も終わってはいない。そして、何も始まってもいない。


どっと疲れが押し寄せてくる。革靴を脱ぐのももどかしく、俺はリビングのドアに寄りかかったまま、ズルズルと床に座り込んだ。


「……腹、減ってるだろ。何か買ってくる」


返事を待たずに、俺は再び立ち上がった。財布とスマホだけをポケットに突っ込む。今すぐ、この息の詰まる部屋から少しでも離れたかった。


「拓也……」

「すぐ戻る。絶対に鍵は開けるなよ」


蓮の制止を振り切るように、俺はもう一度アパートのドアを開けた。


夜8時過ぎ。近所のコンビニまでは歩いて5分もかからない。いつもなら鼻歌でも歌いながら歩く、慣れた道。

だが今夜は、すれ違う人間が全員、私服警官に見えた。角を曲がった先に、パトカーが潜んでいるんじゃないかと、何度も振り返ってしまう。


帽子を目深にかぶり、できるだけ俯いて歩く。コンビニの自動ドアをくぐった瞬間、店内の明るさに目が眩んだ。

俺はカゴに、カツ丼弁当と幕の内弁当、それからお茶を二本、手早く放り込む。レジの店員が俺の顔をじろじろ見ているような気がして、必要以上に素っ気なく会計を済ませた。


部屋に戻ると、蓮はソファの上で体育座りをしていた。俺が帰ってくるまで、ずっとあの姿勢で待っていたのだろうか。


「ほら、これ」


ローテーブルの上に、コンビニの袋を無造作に置く。蓮は、おずおずとカツ丼弁当を手に取った。


テレビはつけなかった。

部屋に響くのは、電子レンジが弁当を温める無機質な音と、プラスチックの容器がこすれる音、そして、俺たちが黙々と箸を動かす音だけ。


うまいも、まずいも感じない。ただ、空っぽの胃に、義務的に食べ物を詰め込んでいるだけだ。こんな食事が、これから毎日続くのだろうか。


先に食べ終えたのは、俺だった。

半分も食べられなかったカツ丼をテーブルの隅に押しやり、俺は、ずっと聞きたくて、聞くのが怖かった質問を、ようやく口にした。


「……ニュース、見たぞ」


蓮の箸が、ぴたりと止まる。


「新宿の雑居ビルで、男が死んでたって。……あれ、お前なのか?」


蓮は、何も答えない。

ただ、弁当の白米を、じっと見つめている。その沈黙が、何よりも雄弁な答えだった。


「……なんでだよ」


声が、震える。


「なんで、殺したんだよ……っ」


俺の問いに、蓮はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。まるで、深い湖の底を覗いているようだ。


「……あいつは、死んで当然の奴だった」

「死んで当然……? なんだよそれ! 人を殺していい理由になんて、なるわけないだろ!」


思わず、声が大きくなる。しまった、と口を押さえたが、もう遅い。俺は壁の薄いアパートに住んでいる。隣の部屋に聞こえたかもしれない。


「……ごめん。大声、出して」


蓮はそう言うと、また黙り込んでしまった。


これ以上、こいつからは何も聞き出せない。そう直感した俺は、話題を変えることにした。もっと、現実的な話をしなければ。


「……これから、どうするつもりなんだ」

「……」

「金は、あるのか」

「……少しだけ」

「身分証は? スマホは?」


蓮は、無言でかぶりを振った。おそらく、逃げる途中で全部捨ててきたんだろう。用意周到なのか、ただパニックになっていただけなのか。


「……そうか」


俺は大きく、ため息をついた。もう、選択肢は残されていない。


「……とにかく、しばらくはここにいろ。絶対に外には出るな」

「拓也……でも……」

「俺がいいって言ってんだよ!」


俺は、苛立ちを隠せなかった。蓮に対してじゃない。こんな状況に陥って、結局は蓮を受け入れてしまっている、自分自身に対してだ。


「ゴミは、俺が出す。お前が触ったもんは、全部俺に渡せ。食いもんは、俺が買ってくる。風呂とトイレ以外、このリビングから動くな。いいな」

「……」

「返事は」

「……ああ。……分かった」


共犯者としての、新しいルール。

それを決めた瞬間、俺はもう、ただの橘拓也ではなくなったのだと悟った。




その夜、俺は自分のベッドに、蓮はリビングのソファで眠ることになった。壁一枚を隔てた向こうに殺人犯がいる。そんな状況で、眠れるはずもなかった。


目を閉じると、ニュースで見た『遺体発見』の文字が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。




午前3時を回った頃だった。

遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。


ウーーーー、ウーーーー……。


最初は、ただの救急車かと思った。だが、その音は途切れることなく、そして、だんだんと、このアパートに近づいてきているような気がした。


バレたのか?

誰かが通報したのか?

もう、終わりなのか?


俺は息を殺し、耳を澄ます。心臓が、肋骨を叩きつけるように激しく脈打つ。

隣のリビングからも、蓮が身じろぎする気配が伝わってきた。あいつも、この音に気づいている。


サイレンの音は、すぐ近くで一度大きくなり──そして、ゆっくりと遠ざかっていった。


「……はぁ……っ」


全身から力が抜け、ベッドのスプリングが軋む。ただ通り過ぎただけだった。


その時だった。


「……ごめんな、拓也」


壁の向こうから、くぐもった蓮の声が聞こえた。


「……巻き込んで」


その言葉に、俺の中で何かがプツリと切れた。抑え込んでいた黒い感情が、堰を切ったように溢れ出す。


「……今更だろ」


俺は、壁に向かって、吐き捨てるように言った。

「お前が俺の前に現れたあの瞬間から、とっくに巻き込まれてんだよ」


返事はなかった。

窓の外が、少しずつ白み始めていた。


土曜日が、始まろうとしていた。

会社という名の『日常』への逃げ場がない、地獄の週末が。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る