第10話 手にかいた汗と胸の高鳴り
今日は朝から、胸の奥がなんだか落ち着かない。
モーニングの仕込みを終えて、腰に巻いたエプロンのポケットにそっと指先を滑り込ませる。触れたのは、昨日の夜にこっそり用意したもの──それだけで、心臓がひとつ跳ねた気がした。
外では、抜けるような青空が広がっている。雲ひとつなく、乾いた風が軽やかに吹き抜けていく。
そういえば今ごろ日本は、しっとりとした梅雨の季節のはずだ。湿った空気と、アスファルトに打ちつける雨の音。そんな景色を思い出すたびに、ここで吸い込む空気の違いを改めて感じる。
この国は、すべてが軽やかで、鮮やかで、少し不思議だ。
表の掃き掃除を終えて、ぱたぱたと店内に戻る。カウンターの中に入ったとき、マスターの声が優しくかけられた。
「ミア。どうしたんだい? 少し顔がこわばってるけど」
「えっ、そうですか? ……ちょっと、お手洗い行ってきます!」
急いでその場を離れる。どうしてこんなに動揺しているんだろう。今日が“月曜日”だっていうだけで、こんなにも気持ちがそわそわしてしまうなんて──我ながら情けない。
鏡の前に立って、そっと深呼吸。胸に手を当てて、ポケットの中身をもう一度確認する。
……うん、ちゃんと入ってる。
リップを手に取り、さりげなくブラウンを引く。光の加減でほんのり艶が出る程度。大げさじゃないけれど、大人っぽさをほんの少しだけプラスしてみた。
昔から、自分の機嫌は自分で取るのが得意だった。
病院で働いていた頃も、笑顔と冷静さを崩さずに乗り切ってきた。
けれど、こんな“浮足立った感情”には慣れていない。
心に、きゅっとリボンを結ばれたような、くすぐったい緊張感。
それをほどけないようにそっと胸の奥にしまって──扉を開ける。
──キィッ。
「ミア、おかえり。大丈夫?」
「はい、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
マスターのいつもの柔らかい声に笑顔で応えつつ、胸の奥はまだ騒がしい。
「あ、ヘンリーくんがもう来てて。いつもの席にいるから、コーヒーお願いしてもいい?」
「はい、わかりました」
カウンターからコーヒーを受け取り、そっとテラス席へと足を運ぶ。
今日の海は、どこまでも穏やかで、陽の光にきらきらと反射していた。まるで心のざわめきを吸い取ってくれるかのように。
彼はテーブルに肘をつき、頬杖をついたまま、じっと海を眺めていた。
淡い光を受けて、整えられた髪が静かに揺れている。その横顔は、まるで一枚の絵のようで──、思わず息を止めてしまう。
「お待たせしました。コーヒーです」
「……ああ」
その声はいつもと変わらず低く、落ち着いていた。わたしには目を向けず、ただ自然にカップを手に取り、口元へ運ぶ。
(男の人なのに、なんだろう……綺麗っていうか。
ずるいな、こういうの)
ふいに返ってきた言葉に、肩がぴくりと跳ねた。
「……そんなに見られると飲みづらいんだが。俺になんか用か?」
「あっ、えっと……よければ、これ」
わたしはポケットから、そっと小さな包みを取り出して、彼の前に差し出した。
「……クッキー?」
「はい。この前、濃い紅茶が好きだっておっしゃってたじゃないですか。
最近、紅茶を買う機会があって……それに合わせて、バタークッキーを焼いてみたんです。
甘いのが苦手かもしれないと思って、チーズとベーコンのもしょっぱいのも一緒に。よかったら、と」
「ふぅん……悪くない。
仕事の合間にでもいただくとしよう。これなら、濃い紅茶にも合いそうだ」
その言葉に、胸の奥で結んでいたリボンが、ふわりと緩んでいくのが分かった。
張り詰めていたものが解けると、自然と呼吸も深くなる。──ああ、ちゃんと届いたんだ。
「それは、よかったです。
ヘンリーさん、学校の先生……なんですよね?」
「ああ。あそこの魔法学校のな。
まさか自分が、卒業した学校に戻って教師になるなんて、思いもしなかった」
「魔法を使えるなんて、すごいなぁ……」
「お前がいた世界には、魔法はないのか?」
「はい。魔法のない世界にいました。
だからここの毎日は、おとぎ話みたいで……。
わたしに魔力はないけれど、それでも日々が新鮮で驚きの連続です」
「そうか。
……来月、うちのアカデミーで文化祭がある。
よければ来てみるといい。お前にとっては、きっと新鮮だと思う。
タイミングが合えば、少し案内してやる」
「えっ……本当にいいんですか?」
「ああ。文化祭は土日の開催だし、このカフェは水曜と土曜が定休日だろう?
たぶん休みも合うと思う」
「わ〜〜……うれしい!ありがとうございます!」
「ふ。お前は、ころころと表情が変わるな」
心を覗かれたようなその一言に、思わず胸が跳ねた。
でも、気づかれまいとすぐに笑顔で返す。
「だって、本当にうれしいんですもん!魔法学校って、まるで映画の世界みたいで!」
「そうか。俺にとっては、生まれたときから魔法があるのが当たり前だからな。
……お前の反応は、なかなか興味深い」
「そうですか?……あ、そういえば!」
「その学校って、なんて名前なんですか?
まだこの辺りの土地勘がなくて……」
「“ステラ・フォルトゥナ・アカデミー”だ。」
「……ん? もしかして、エスエフエー(SFA)ですか?」
「なんだ、知っているじゃないか」
まさか──この前の不良……もとい、レイくんが通っている学校じゃないか。
(えっ、こんなに厳しそうな先生がいるのに、よく授業サボれるな……あの子。)
「……あ、でも最近知り合った子がSFAに通ってるって言ってたんです。まさかヘンリーさんがその学校の先生だったなんて」
「ほう。──まぁ、この店には俺も、学生の頃から通っていたからな。そんな偶然もあるだろう」
「ヘンリーさんの学生姿なんて、想像もつかないです」
「……ヘンリーくんはね、学生の頃から変わってたよ。昔から、まんまこの感じさ」
「あ、マスター!」
「ふん。自分に忠実なだけだ」
「あっはっは!それは失礼!」
和やかな空気が流れるなか、マスターがふと真剣な顔をしてこちらを向いた。
「そうだミア。前に作ってくれたツナとローズマリーの、あれ……なんだったかな?」
「おにぎり、ですか?」
「そう、それそれ。“おにぎり”。さっき話してたら、食べてみたいっていうお客さんがけっこういてね。また作ってもらえると嬉しいんだが」
「“おにぎり”? はじめて聞く言葉だな」
「そうですよね。わたしがいた国では、主流の食べ物なんです。すごくおいしいので……ヘンリーさんも、気が向いたらぜひ!」
軽く頭を下げて、そそくさと店内へ戻る。
「じゃあミア、頼んだよ」
マスターのその声に頷きながら、わたしは足早にキッチンへ向かった。
その背中を見送りながら、マスターがふっと笑ったのを、ヘンリーさんは見逃さなかった。
「……マスター。その“おにぎり”って、食べたことあるのか?」
「もちろんさ。そうじゃなきゃ、お客さんに話せないよ」
「……そうか」
「しかし、ヘンリーくんがそんなこと言うなんて珍しいねぇ。朝は何も食べない主義だったはずだろう?」
「……まあ、そうだな。気にしないでくれ」
「へぇ?」
「おいマスター。にやにやするな」
そうやって口を尖らせた彼の横顔が、いつもよりほんの少しだけ、やわらかく見えた──気がした。
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