首輪をつけられた聖女、その最後の物語

よし ひろし

第一話 偽りの聖女

 白い祭壇の上で、ミィアは静かに手を合わせていた。膝まで届く淡金色の髪は、薄い陽光を含んで柔らかく輝き、その瞳はどこまでも澄んだ春水色。純白の衣を身にまとい、豪奢な装飾品で飾られた彼女こそ、人々を幸福に導くと謳われる“聖女”だった。


 彼女の周りには数十人の信者が跪き、涙を流しながら祈りを捧げている。薄暗い礼拝堂に響く嗚咽と、かすかに香る線香の匂い。それらすべてがミィアには重く、息苦しかった。


「聖女様、どうかお救いください」


 中年の女性が震え声で懇願する。夫の借金、息子の病気、家庭の不和──人々が抱える悩みは尽きることがない。ミィアは優しく微笑みかけ、そっと女性の額に手を置いた。

 温かな光が指先から滲み出る。それは魔法というほど派手なものではなく、まるで春の陽だまりのような、穏やかな力だった。女性の表情が徐々に和らぎ、絶望に曇っていた瞳に希望の光が宿る。


「大丈夫です。きっと、すべてうまくいきます」


 ミィアの声に、女性は安堵の涙を流した。彼女だけではない。祭壇の前に集まった信者たちの心にも、小さな平安が訪れていく。重苦しかった空気が少しずつ軽やかになり、人々の顔に笑顔が戻っていく。


 これがミィアの力だった。人の心に微かな変化をもたらす力。絶望を希望に、怒りを寛容に変える。決して劇的な奇跡を起こすわけではないが、確実に人々の心を癒していく。


「今日もありがとうございました、聖女様」


 信者たちが次々と感謝の言葉を残して礼拝堂を去っていく。ミィアは笑顔で見送りながら、胸の奥に沈む重たい感情を押し殺していた。


 人々が完全に去ると、礼拝堂の空気が一変した。


「上出来だ、ミィア」


 祭壇の奥から現れたのは、黒いローブに身を包んだ男──教団の幹部、ガゾルムだった。彼の口元には薄い笑みが浮かんでいるが、その目は冷たく、まるで商品を値踏みするかのようにミィアを見つめている。


「今月の献金は先月の三割増しだ。特に今日来た商人の妻、あの女の夫は街で一番の金持ちだからな。うまく取り込めれば、さらなる資金源となる」


 ミィアの胸が締め付けられた。彼女が癒した人々の純粋な信仰心が、こうして金銭に換算されている現実。それでも、彼女は何も言えなかった。

 首元に巻かれた銀色の首輪が、微かに熱を持ち始めたからだ。


「私は──」

「何か言いたいことがあるのか?」


 ガゾルムがドスの利いた声で言う。とても聖職者には見えない。本性が透けて見えていた。

 途端に首輪が、ミィアの痛覚を刺激しはじめる。喉から全身へと鈍い痛みが走り、彼女は慌てて首を振る。それは彼女を服従させる為の魔法が込められた“隷属の首輪”だった。それが、ある限り、彼女は反抗できない。


「いえ、何も……」

「そうだ。お前はただ、人々を幸せにすればいい。それがお前の役目だからな」


 ガゾルムは満足そうに頷き、再び祭壇の奥へと消えていった。


 一人残されたミィアは、祭壇に崩れるように座り込んだ。首輪の痛みは徐々に引いていくが、心の痛みは増すばかりだ……


 彼女の力は確かに人々を幸せにしている。けれど同時に、その力を利用して教団は信者たちから金銭を搾取し、政治的な影響力を拡大している。自分の善意が、結果的に人々を欺く道具として使われているのだ。


「……」


 ミィアは自分の手を見つめた。人を癒すこの手が、同時に人を騙す手でもある。そんな矛盾に、彼女はもう何年も苦しんでいた。


 外の世界では、“幸福の聖女”として彼女の名前が広まっている。人々は遠方からも彼女に会いにやってくる。その純粋な信仰心を前にして、ミィアはいつも罪悪感に押し潰されそうになっていた。

 けれど逃げることはできない。この首輪があるかぎり、少しでも反抗の心を抱けば激痛に襲われる。自由への憧れそのものが、彼女を苦しめる毒となっていた。


「私は本当に、人を幸せにしているのだろうか……」


 誰もいない礼拝堂で、ミィアは小さくつぶやいた。その声は虚しく響き、やがて沈黙に飲み込まれていった。


 夕日が礼拝堂のステンドグラスを照らし、色とりどりの光がミィアの頬を濡らしていく。それは涙なのか、それとも光の戯れなのか、もはや彼女自身にもわからなくなっていた――


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