37話
村を後に暫く進んだところにあった大木の下で野営を行い、弟子達を寝かせて寝ずの番をしていると背後から草木を掻き分ける音が聞こえた。そちらに耳を澄ませて聞こえるのは獣よりも人よりも強い呼吸の事と、人間よりもはるかに体重の重い生物の足音。
背後に潜む者に気取られぬように立て掛けていた棍棒を手に取る。獲物を求めてやって来た魔物であるのか、野盗と化した魔族が俺達の命を狙っているのか、それとも弟子の命を狙う新手であるのか。どれであっても鉄塊の餌食にしてやることには変わりはないだろう。そう思いながら襲い掛かる頃合いを見極めていると、かけられるはずの無い声がかけられた。
「クルツ……そこに居るのはお前なんだろ?」
「その声は――!?」
声をかけてきたのは俺が追いかけている友であった。聞き取れる彼の声は獣の唸り声と彼の声を混ぜ合わせて擦れさせたようだ。
「その声はベーリンか! 正気を失ったんじゃなかったのか?」
「あぁ殆どナ。正気でいられるのは1日に数時間程度。しかもその時間は日に日に短くなっていて、それそろ俺の意識は消えちまうって具合ダ」
「だから言える内に最期の別れを言いに来たのか?」
「そうダ。お前の事だろうから俺を終わらせに来てくれるはずだと思っテ、正気に戻る度に住処の周囲を走り回っていたんダゼ。予想道りだったナ!」
ベーリンは微笑んでいるのが見ていなくともわかるくらいに嬉しそうな声を出している。この世に生きている者の中で最も俺を理解している親友は、俺が信頼を裏切らなかったことが嬉しくて仕方が無かったのだろう。
「クルツ、ここに居るエリーを頼む。こいつには守る者も身寄りも無い。俺の財産の一部を譲り渡せるように、とある女に遺言を預けてあるが履行されない可能性がある。最悪の場合は……頼む、エリーを助けてやってくれ。こいつは俺の大切な人なんだ」
「それがお前の願いならどんなものでも。俺にはそうする責任がある」
「お前ってやつは……。っ!? そろそろ時間切れらしい。クルツ、最後にお前に良い事を教えておいてやる。お前が倒す魔物は"俺と同じでエリーに執着していて、目の代わりに匂いと音で世界を見ている"。それと、"剣は多少は使えるし空も飛べる"。俺程じゃないが手強いから気ヲツケロヨ!」
有益な情報を言い残すとベーリンは羽ばたく音を立てて気配を消した。出会って5秒で殴り合い、幾度も拳と暴言を交えて理解し合い、最高の友となったあの男は周囲からの視線が変わろうとも怪物の俺と最後の最後まで友であってくれた。
俺はこれからそんな男の息の根を彼の名誉を守るためにこの手で止めねばならない。共に寄り添い歩んでくれた彼のためならば最早躊躇いは無いが、しなければならない事を想うと8つの目から滝のように溢れ出るこの涙だけは決して止めることが出来なかった。
「クルツ様……」
「エリー、だったな? すまない。俺が奴の近くに居てやれば――」
「そうすればもっと悪いことになっていたと思います。正気に戻った時、あの方は『かつての仲間が勢揃いで一緒に戦ったとしても、あの鯱男はどうにもならない相手だった』と仰っていましたので……」
草葉の陰から現れたエリーは眠っているランジェの方を見て唇を噛んだ。鯱男という魔族に大切な人を奪われた彼女からすれば、目に見えて鯱の特徴を持つランジェには良くないとわかっていながらも悪しき感情を持ってしまい、そう感じていることを自ら恥じているのだろう。
「うっ!!」
「おい、どうしたんだ! 気分が悪いのか!?」
「違います……これは違うんです……」
エリーは口を押えて蹲った。感情の起伏から来た吐き気かと思ったが違いそうだ。病に侵されているわけでも無いのに吐き気の症状、これは――。
「おいおい、マジかよ……」
「はい……2か月目です……」
「……成る程、女癖の悪さは世間を欺くための嘘だったのか」
英雄として名が通っており血筋と顔が良いとくれば言い寄ってくる者は必ず現れる。ベーリンはエリーから離れたくないがために、放蕩な浪費家を演じることでそれを未然に遠ざけていたようだ。衝撃的事実は重く、受け止められるようになったのは無言で空を見上げて夜更けまでかかってしまった。
「成る程! それでエリーさんがここに居ると!」
「理由はわかった。でも……何で私を睨んでいるの?」
「それは――。……後々の事を思えば今話しておいた方がいいか。ランジェ、お前が睨まれているのはベーリンがあの姿になった原因であるお前の親父を思い出させる背鰭と尻尾の所為だ。お前自体に問題があるわけじゃない。そうだろエリー?」
「っ!? え、ま、まぁそうです……ね」
エリーは見つめ返してくるランジェから目を逸らして曖昧な返事をした。仇の親族であるからという理由で恨みを持つことが正しくないとは思っていながらも、人間であるが故に愛しい人を奪われた彼女は眼前の鯱娘に対して負の感情を向けるのを止めることが出来なかったようだ。
「恨んでもいい、呪ってもいい。貴方は強いから戦いたいし」
「こいつはこういう奴だ。悪い奴ではない……はずだ」
「えぇ、わかります。わかりますよ……何かに真っ直ぐなところだけはあの人に少し似ていますから……」
エリーはある意味で純粋なランジェにベーリンと似たところがあると感じたようで、物悲し気な表情を浮かべている。今のところの感触は悪くない、時間をかければ彼女達にとって望ましい関係を築くことだって不可能ではないはずだ。
「そ、それでどうするのですか? 買った武器で罠を作ってそれに嵌めれば実力差を多少は埋められるかもしれませんが、都合良く引っかかってくれるでしょうか? 鼻が良いなら異変に気付いて近寄ってこないのではないですか?」
微妙な空気の中で朝食をとっていると、弟子が何とか空気を換えようと口を開いた。ベーリンを愛する人の前で彼の殺害方法を話し合うのは如何なものかと思いエリーの方を見たが、彼女は眉を少し動かしただけでそれ以上の反応は見せなかった。魔物となって正気を失った者は助けようがなく、本人が殺されることを望んでいるの知っているので覚悟はもう出来ているのだろう。
「餌を置いて誘き寄せる。餌はこいつだ」
「これは壺……ですか? もしや、何か特殊な力のある壺なのですか!」
「そんな都合の良い壺なんて持ってない。こいつは見ての通りのただの壺だ」
「ただの壺!? そんなもので釣れるのですか!?」
「あぁ絶対に誘き寄せられる。エリーが少しの事をしてくれれば、何の変哲もないこの壺が他の何よりも奴を誘き出せる餌に変わる」
3人の前に手の平に収まる大きさの壺を置く。目が見えず鼻の利く魔物であるならば、今考えている作戦は絶対に上手くいく。決して綺麗な作戦とは言えないが、勇者一行で最強でありまともに戦えば勝ち目のない男と戦うには手段など選んでいられていなかった。
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