10話

「お師匠様、お師匠様!」

「初めと終わりの文章を決まり文句だと仮定して――いや、それだと文字の数が合わないな。どう組み合わせても形容詞にも副詞にもならないし、名詞か?」

「お師匠様ッ!!」

「うるさいぞ! まったく、耳元でデカい声を出さなくても、気付いてほしけりゃ肩なり背中なりを軽く叩けばいいだろ! あぁクソっ、頭が痛ぇ!」


 独り言交じりに作業をしていた俺の耳元で叫んだナールの額に手刀を入れる。夜通し暗号解読を行っていた頭に響いた彼女の声で、頭が真っ白になり辿り着きかけていた4頁目の答えから遠ざかってしまった。


「うぅ酷いです。『明日は"洞窟"に行くから、朝になったら何をしてでも解読を止めさせろ』ってナールに言ったのはお師匠様の方なのに……」


 弟子は蹲り、頭を抱えて震えている。頭がうまく動いていない状態で彼女に打ち付けた手刀は、力加減が機能していなかったので相当に痛かったはずだ。


「顔を洗い終えたら家を出る。外出の用意をしておけ」

「は、はいぃ……」

「あぁそうだ、今日は鉄板仕込みの上着を羽織っておけよ。そのままの格好で行ったんじゃ、阿片窟の追い剥ぎにナイフで内臓を掻き回されるかもしれんからな」


 幕の向こうで身支度を済ませていく弟子に、壁に掛けられて埃を被った防具を身につけるように指示する。外見上はただの上着であるそれは、裏地に何枚もの金属片を鋲打ちしてある立派な防具であり短刀程度であれば防ぐことができる。修繕も簡単で、軽くて動きを阻害しづらい良い防具である。


「ひぇっ!」


 弟子はされるかもしれない行為を想像して身震いし、慌てなくてもいいのに大慌てで上着を羽織った。倍の年齢の者を打ち倒せる実力はあるというのに、まったくもって臆病な奴だ。


 貧民街4番地、此処は騒ぎが起きない日も身包みを剥がされた者が水路に浮かばない日も存在しない極めて治安の悪い地区だ。この場所では数多の犯罪組織が血生臭い縄張り争いを繰り広げ、相手が誰でも御構い無しに襲い掛かる追い剥ぎ達が闊歩している。用が無い限り、入るべき場所でない。

 臭いも酷い物で、道端に吐きだされたまま放置された吐瀉物や水路に廃棄されて浮かんでいる魚の臓物から放たれる刺激臭は臭いを越えて目に染みる域に達している。


「音を聞けば奇声に嬌声、臭いを嗅げば阿片の香りと悪臭、目を開けば禁輸品を売る露店。こんな場所に隠れ潜むなんて、一体何を考えているんだか」


 表通り以上の悪臭から鼻を守る為、煙管で香草を混ぜこんだ煙草を吹かしながら弟子を連れて阿片窟の中へと歩いて行く。

 阿片窟の"洞窟"は増築に増築を重ねた所為で、原型を留めてない聖堂である。内部は明かりがなければ殆ど何も見えない程に暗く、何処までも続いているのでは無いかと思わせる程に広い。元々礼拝用に置かれていた椅子に横たわる人々は、涎を垂らして焦点の合わない目で虚空を見つめている。少なくとも信仰心を持つ者は此処には居なさそうだ。だが神は見えているのかもしれない。

 無気力となり体を清潔にしない彼等が寄り集まっている所為か、屋内は俺の家よりも濃厚な獣臭さが充満し衣擦れの音がひっきりなしに聞こえてくる。例えるならそう、数十匹の犬猫を室内で放し飼いにしているかのような空間だ。


 惚けた表情で身を寄せ合う男女を横目に通路を進んでいくと、ある集団に遭遇した。それは派手な服を着込んだ魚面の男と、彼に連れられて歩く手枷や足枷を嵌められた痩せ細った子供達。阿片商人と支払いの為に売られた少年であった。

 彼等が横を通り過ぎる時、男が身に付けている首飾りが昨日壊した銅像と似た形をしていることに気が付いた。どうやらこの磯臭いこいつも邪教徒の仲間であるらしい。


「お師匠様、さっきの人!?」

「あぁわかってる。武器を揃えられる資金源が何なのか謎だったが、まさか阿片の密売だったとはな。だがそれなら納得できるな……」

「何が納得できるのですか?」

「昨日、帰ってすぐに教えた王族の娘の事だ。この国で出回っている阿片は、王族や貴族が偽装した花畑で密造して流している物ばかりで、邪教徒はそいつを手に入れられる人脈を持っている。それなら誘拐するのに必要な情報収集や工作だって簡単に出来ちまうだろう?」


 周囲に誰も居ないことをよく確認してから、声を小さくして納得した理由を弟子に話す。箝口令が出ている出来事を話していたと知られれば、どんな処罰を受けるかわかったものではない。


「おぉ! 確かにそれなら合点がいきますね! それだけ条件と資金が整っているなら、ナールでも護衛を片付けて誘拐出来ちゃいそうです!」


 ナールは納得した様子で頷き、容姿に似付かわしくない物騒なことを口走った。この師匠あってこの弟子あり、姿形の違う俺がそこにもう1人居るかのようだ。


 阿片窟を奥へ奥へと進んで行く度に、目に入る阿片吸引者の数が増えていく。骨と皮だけの彼等は阿片で無気力になっており、動かず語らず煙管を口に咥えているだけで何もしない。通り過ぎる俺達を、虚ろな双眸で追いかけるだけだ。

 暫く歩いていると、傍を歩く弟子に手を握られた。彼女の小さな手は震えており、冷や汗で湿っている。どうやら黒く澱んだ瞳を向けられ続ける事に恐怖を覚えたらしく、手の平から伝わってくる脈は小動物のそれの様に速くなっている。

 その手をこちらが握り返してやると、彼女の震えは少しだけ収まった。幾つかの左目を下に向けて様子を確認すると、弟子は緊張の残った笑みを浮かべていた。信頼している師によって守られているのだと意識させられ安心したのだろう。


「あっお師匠様お師匠様、あそこの表札を見てください! 『エレーナ』って書かれてますよ、探してる人と同じ名前が書かれていますよ!」


 ナールがそう言いながら前方にある壁を指差した。住所が書かれた紙から目を離してそちらを見てみると、そこには雑多な木材で作られた表札が壁に打ち付けられていた。それには彼女が言っていた通り、探している女の名前が書きこまれている。近くにある鉄製の扉に記された住所とルナから得た情報が合致するので、目的地はここで間違いない。


「ナールが見つけたんですよ! お師匠様より早く見つけましたよ!」

「はいはい偉い偉い。それで、お嬢さんはご在宅かな?」


 したり顔で胸を張るナールを撫でながら、扉を軽く叩く。

 中からの反応を待ち、扉の前で数分ほど待った。しかし、留守なのかそれとも中に居るにも拘らず反応しないのか返事は返ってこない。ふと取っ手に手をかけて少し引いてみると、重い扉は錠前の閂に引っかかることなく動いた。

 人差し指を突き刺せるくらいに隙間を開けると、鉄錆と吐瀉物を混ぜ合わせたような異臭が室内から溢れ出てきた。鼻を突くその臭いは、魚市場で積み重ねられ腐敗した魚の腑に似ている。


「ナール、剣を抜いておけ」

「は、はい!」


 もしもの時に備え、弟子に剣を抜かせる。住人の返事は無く、開いているはずのない鍵が開いている上に物騒な異臭がしたのだから、中に何があるのかなどわかったものではない。

 後ろ手で中に入るまでの秒読みをし、終えると同時に大きく扉を開け放ち侵入する。重量のある煙管を武器代わり構え、周囲確認をしながら進んでいく。暗闇の中を進むにつれて臭いは濃くなっていき、発せられている元へと俺達を誘った。

 臭いの元へと辿り着くと、そこには俺達が探していた女が横たわっていた。目を潰され、引き裂かれた腹から腑を引き摺り出された彼女は何かを呟きながら緩やかに訪れる死を待っている。


「ひっ!?」

「裏切……私じゃ……」


 エレーナであろう女は踏み潰された苺のようになった瞳でこちらを見つめ、必死に何かを伝えようと試みている。しかし息絶え絶えの彼女は断片的にしか言葉を発せておらず、その内容は想像で補う事しかできない。


「私は……貴方を、愛していたから……!」


 彼女は縋るように俺の腕を掴むと、最後の一言を喉から絞り出し息絶えた。

 力の抜けた指が腕から離れると、同時に掴まれていた場所から痛みが沸き上がってくる。見るとそこには爪が食い込んで出来た傷があり、裂けた皮膚から血が流れ出ていた。彼女の切実な表情と死に瀕して出した異質な腕力に気圧されてしまい、筋肉まで届く怪我をしていることに気づいていなかったのだ。


「お師匠様、大丈夫ですか!? ナールの傷薬を使いますか!?」

「この程度の怪我なら要らん。そんなことを考える暇があるなら、俺が手当てをしている間に部屋に残った金目の物と情報を掻き集めろ! ほら、早くやれ!」


 ベルトに括り付けた巾着から塗り薬を取り出そうとした弟子を手を突き出して制し、部屋の探索をするように命令する。この程度の傷であれば、高価な薬を使わずとも手拭いを使って傷口を縛り上げるだけでよい。弟子が怪我をした時に備えて彼女に持たせている薬を使う必要はない。

 それに、今はそんな事よりも女の殺され方が妙であるのが気になって仕方がない。何故苦痛を与える必要があったのだろうか、何故喉を潰されていなかったのだろうか。彼女が口にしていた言葉にその問いを解き明かす鍵があるのなら、「裏切り」という部分にそれはありそうだ。何らかの疑いをかけられ、裏切り者として処断されたのだろうか。


「見つけましたよ! ナールは良い物を見つけましたよ! あっ――」


 手当を終えて考え込んでいると、何かに躓く音と共に何か硬い物が背中中央の、火傷の痕に叩きつけられた。眉間に皺を寄せ振り返ると、真珠の首飾りと封の切られた封筒を手に持った弟子が地面に這いつくばり誤魔化し笑いをしていた。

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