契約恋愛 ー契約に基づき、今日からあなたは私の恋人ですー
横浜ひびき
プロローグ
4月8日、この日初めて僕は彼女を彼女として見た。
横浜の丘陵に半周のとぐろをまいて雲上へと駆け上る坂道を登り、小高い住宅街を縫うように進む狭く初めての通学路。灰一色の単調な雲が塗り壁のように空に塗られ、不自然に物静かなこの街の天井をずっと低くしていた。
「ねぇ、付き合ってよ」
幸先を
つまりこれは、そういう言葉。
わずか15年の人生、記憶ある時期を
その内なる秘密は、右手の親指に出来た小さなタコを嫌い、格好つけてちょっと知的に笑う、温情に溢れた毒気の抜けないただの年頃の女の子。そんな彼女は思春期の誰もが
「いいよ。すみが、その気なら」
僕らの運命を澄香に委ねた。
「じゃあ土曜日にでも新しく出たフルーツタルトを食べに行くの付き合って。イチゴがたくさん乗った春限定のやつ。高校生にもなったんだし、今年こそ絶対に食べるんだから。」
「............。あぁ、いいよ。前から言ってた横浜駅のタルト屋さんのね」
世界は二度、瞬いて暗転した。その間に澄香の駆け足な喋りが僕一人を取り残して行ってしまった。予想だにしない反応で僕の言葉は虚空にふわふわと浮かび、掴みどころの無い言葉を聞いた澄香は容量を得られない顔をしていた。が、彼女の脳内で客観的事象と憶測が噛み合ったのだろう。フクロウみたいにくるりと首をこちらに向けてきた。
「え、待って、なに。まさか、私が告白したとでも思ってたの?」
そのまさかじゃないの、と僕の見えぬ顔にはそんな言葉が知らぬ間に浮かび上がっていた。イマイチ状況を理解できていない僕に
「告白のわけないでしょ、バカなの?」
「.......バカですよ、バカですよ、どうせ。ただ言っておくけど、あの言い方されたら誰だって勘違いするぞ、絶対」
「ふう〜ん。爽太、私のこと好きなんだ」
聞く耳持たず、単なる負け犬の遠吠えとしか思っていなさそうだった。ただ、そんな澄香の言葉は僕の心へと届く前に
「何その反応」えも言えぬ反応をした僕に澄香は訝しむ目を向けてくる。僕にもこの事象はよくわからなかった。
「なんでもない。すみはどうなの?俺のことどう思ってるわけ」
「もちろん好きだよ、幼馴染として」
自信気で、大人びていて、目線は決してズラさない。やんわりと上がった口角、上目遣いの瞳、ふくよかにあつまった頬、ちょっぴり傾げた首。セリフも、仕草も、見せ方も、全てが計算されている。テレビで見る女優の振る舞いであった。
「それはありがとう。僕もすみのこと好きだから」
「それどう言う意味?」
今度は
「どう言うって言われても......。単にすみと同じ幼馴染として好きってこと」
最後まで聞いた彼女は左手の甲を眉間に当てて、露骨なほどに盛大なため息を吐き出した。顔を動かせば当たりそうだった距離も、今では一歩踏みこなければ当たりそうにない。
「そんなにため息ついたら、幸せ逃げるぞ」
「爽太ってホント青春不適合者だよね」
耳馴染みはあるが、聞いたことのない言葉。一音一音はっきりと口にされ、身の毛がよだつほどにその言葉は冷えていた。僕に出来たのは喉を鳴らすことだけ。
「いま私が作った言葉。社会不適合者じゃなくて青春不適合者。まぁ、青春が向いてないなら社会も向いてないんだろうけどね」
「.......ホントすみって加減しないよな」
「私とあんたしか聞いてないんだから別にいいでしょ」と澄香は明後日の方向を向きながらに応えた。
軽く周りを見渡しただけで、同じ制服を着た新入生が10人は目に入る。これから知り合いになり、友人になり、もしかすれば親友や恋人にもなるかもしれない人たち。ただ、誰しもが他人を装って精神的にも物理的にも距離を置き、同じ目的地に向かって歩いてるだけ。確かにこの状況なら、彼女の言う通り周りを気にする必要はなさそうである。問題の本質はそこではないのであるが。
「まっ、どうせ爽太のことだから卒業式の日まで彼女いなさそうだし。ホントに彼女が出来なかったら、その時は本当に付き合ってあげるよ」
気を取り直した澄香は、心から湧き上がった感情をそのまま言葉にしていたようだった。少し怒っていて、だいぶ哀れんでいて、かなり愉快だった。
「どうせまた揶揄われるんでしょ。まさか入学式の時の言葉を本気にしてたの?とか言って」
「どうかな。それはその時の私次第?」
「ほら、否定しないじゃん」
「なに、そんな心配?契約書の1枚や2枚、書いてあげよっか?」
雰囲気は大人びてる癖に、悪巧みを考える小学生のように唇をニッと結んでいた。
「別に結構です」
「爽太にも春が来るといいね」クスクスと微笑みながらも、母親のように温かな口調であった。
「いいよ、青春なんて。すみの言う通り、青春不適合者だから」
「ごめん、ちょっと言い過ぎたって。でも折角、季節も春になって、人生の春もすぐそこなんだから楽しまなきゃ損だよ」
「高校って人生の春なの?」
「だって大学生って人生の夏休みなんでしょ、そしたら今が春じゃない。春がすぐ目の前にあるんだから。早く踏み出さないと心まで腐っちゃうよ」
「だからすみはそんなにも陽気なのか」
「どういうこと?」
「だって、すみって自分のことはいつも自分で決めて、自分で一歩前に進むじゃん。すみは春の陽気を先取りしてるんでしょ」
彼女が
「すみ?」と言うと大人びた黒髪のショートボブを風に揺らめく柳の葉のように揺らし、思考の
「ううん、何でもない。ちょっと部活のこと考えてただけ」と立ち止まる僕に言い捨て、再び澄香と肩を並べて歩き始めた。
何かあるように見られてしまったから、人はなんでもないと言うのだろう。彼女の声は暴発しそうな感情を何とか抑えていこんでいるギリギリの声だった。それは触れてはいけない、触れられない領域にある感情。何も聞かなかったし、何も見なかった。
朝の
「ねぇ、爽太」
そんな狭い世界を切り拓いた言葉は、何よりも爽やかな青色の風に乗って届いた。
「これからもよろしくね」
小鳥が地に足をつけるようにそっと止まり、軽く握られた小さな右拳が優しく突き出される。誇らしい澄香の笑顔がそこにはあった。澄香と並ぶように僕も止まる。
「こちらこそよろしく」
互いに顔を見合わせながら、小さな拳に合わせてコツンと左拳を優しく当てた。
今日は関東全域が曇りのち雨、太陽も今朝から姿を見せていない。僕たちの学校行事では恒例の冴えない天気での幕開けとなった。
僕たちは僕たちらしく、中学の続きを再開させることを自ら選んだのだ。
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