契約恋愛 ー契約に基づき、今日からあなたは私の恋人ですー

横浜ひびき

プロローグ

4月8日、この日初めて僕は彼女を彼女として見た。

横浜の丘陵に半周のとぐろをまいて雲上へと駆け上る坂道を登り、小高い住宅街を縫うように進む狭く初めての通学路。灰一色の単調な雲が塗り壁のように空に塗られ、不自然に物静かなこの街の天井をずっと低くしていた。

「ねぇ、付き合ってよ」

 幸先をうれう空模様の下、僕が雨男だとか、部活をどうするだとか、道端に転がる小石のような会話をしていた時に前触れもなく、吐息のようにさらりと放たれた言葉。遊びの誘い文句にしてはたおやかなものではなかった。

 つまりこれは、そういう言葉。

 わずか15年の人生、記憶ある時期をかんがみればざっと12年ぐらいの人生。指折り数えても、瀬戸澄香せとすみかという女の子がいない時間の方が短かった。ガラスみたいに繊細で鋭利な曲線で縁どれた風采ふうさいけがれを知らない凛と清らかな風情ふぜいをしなやかな黒髪と共になびかせていて、背中を伸ばす猫みたいな小柄で無駄のない体付きは制服越しでもよくわかる。

 その内なる秘密は、右手の親指に出来た小さなタコを嫌い、格好つけてちょっと知的に笑う、温情に溢れた毒気の抜けないただの年頃の女の子。そんな彼女は思春期の誰もが渇望かつぼうするかぐわしい青春の香をいつもかおらせていた。一人の人間として、一人の異性として、断る道理のない相手。気まぐれな小悪魔の悪戯いたずらだとしても、拒む素振りを見せる理由すら見当たらなかった。

「いいよ。すみが、その気なら」

 僕らの運命を澄香に委ねた。

「じゃあ土曜日にでも新しく出たフルーツタルトを食べに行くの付き合って。イチゴがたくさん乗った春限定のやつ。高校生にもなったんだし、今年こそ絶対に食べるんだから。」

「............。あぁ、いいよ。前から言ってた横浜駅のタルト屋さんのね」

 世界は二度、瞬いて暗転した。その間に澄香の駆け足な喋りが僕一人を取り残して行ってしまった。予想だにしない反応で僕の言葉は虚空にふわふわと浮かび、掴みどころの無い言葉を聞いた澄香は容量を得られない顔をしていた。が、彼女の脳内で客観的事象と憶測が噛み合ったのだろう。フクロウみたいにくるりと首をこちらに向けてきた。

「え、待って、なに。まさか、私が告白したとでも思ってたの?」

 そのまさかじゃないの、と僕の見えぬ顔にはそんな言葉が知らぬ間に浮かび上がっていた。イマイチ状況を理解できていない僕に一瞥いちべつし、澄香は呆れた声で話した。

「告白のわけないでしょ、バカなの?」

「.......バカですよ、バカですよ、どうせ。ただ言っておくけど、あの言い方されたら誰だって勘違いするぞ、絶対」

「ふう〜ん。爽太、私のこと好きなんだ」

 聞く耳持たず、単なる負け犬の遠吠えとしか思っていなさそうだった。ただ、そんな澄香の言葉は僕の心へと届く前に胸骨きょうこつでぶつかり、ストンと地面に落ちていった。

「何その反応」えも言えぬ反応をした僕に澄香は訝しむ目を向けてくる。僕にもこの事象はよくわからなかった。

「なんでもない。すみはどうなの?俺のことどう思ってるわけ」

「もちろん好きだよ、幼馴染として」

 自信気で、大人びていて、目線は決してズラさない。やんわりと上がった口角、上目遣いの瞳、ふくよかにあつまった頬、ちょっぴり傾げた首。セリフも、仕草も、見せ方も、全てが計算されている。テレビで見る女優の振る舞いであった。

「それはありがとう。僕もすみのこと好きだから」

「それどう言う意味?」

 今度はなまめかしい吐息が当たる距離にまで、澄香は寄ってきた。反発するように僕の顔は自然と後ろに下がる。

「どう言うって言われても......。単にすみと同じ幼馴染として好きってこと」

 最後まで聞いた彼女は左手の甲を眉間に当てて、露骨なほどに盛大なため息を吐き出した。顔を動かせば当たりそうだった距離も、今では一歩踏みこなければ当たりそうにない。

「そんなにため息ついたら、幸せ逃げるぞ」

「爽太ってホント青春不適合者だよね」

 耳馴染みはあるが、聞いたことのない言葉。一音一音はっきりと口にされ、身の毛がよだつほどにその言葉は冷えていた。僕に出来たのは喉を鳴らすことだけ。

「いま私が作った言葉。社会不適合者じゃなくて青春不適合者。まぁ、青春が向いてないなら社会も向いてないんだろうけどね」

「.......ホントすみって加減しないよな」

「私とあんたしか聞いてないんだから別にいいでしょ」と澄香は明後日の方向を向きながらに応えた。

 軽く周りを見渡しただけで、同じ制服を着た新入生が10人は目に入る。これから知り合いになり、友人になり、もしかすれば親友や恋人にもなるかもしれない人たち。ただ、誰しもが他人を装って精神的にも物理的にも距離を置き、同じ目的地に向かって歩いてるだけ。確かにこの状況なら、彼女の言う通り周りを気にする必要はなさそうである。問題の本質はそこではないのであるが。

「まっ、どうせ爽太のことだから卒業式の日まで彼女いなさそうだし。ホントに彼女が出来なかったら、その時は本当に付き合ってあげるよ」

 気を取り直した澄香は、心から湧き上がった感情をそのまま言葉にしていたようだった。少し怒っていて、だいぶ哀れんでいて、かなり愉快だった。

「どうせまた揶揄われるんでしょ。まさか入学式の時の言葉を本気にしてたの?とか言って」

「どうかな。それはその時の私次第?」

「ほら、否定しないじゃん」

「なに、そんな心配?契約書の1枚や2枚、書いてあげよっか?」

 雰囲気は大人びてる癖に、悪巧みを考える小学生のように唇をニッと結んでいた。

「別に結構です」

「爽太にも春が来るといいね」クスクスと微笑みながらも、母親のように温かな口調であった。

「いいよ、青春なんて。すみの言う通り、青春不適合者だから」

「ごめん、ちょっと言い過ぎたって。でも折角、季節も春になって、人生の春もすぐそこなんだから楽しまなきゃ損だよ」

「高校って人生の春なの?」

「だって大学生って人生の夏休みなんでしょ、そしたら今が春じゃない。春がすぐ目の前にあるんだから。早く踏み出さないと心まで腐っちゃうよ」

「だからすみはそんなにも陽気なのか」

「どういうこと?」

「だって、すみって自分のことはいつも自分で決めて、自分で一歩前に進むじゃん。すみは春の陽気を先取りしてるんでしょ」

 彼女がかぐわせる青春の香りの正体がなんとなくわかった気がした。能天気な僕と裏腹に、澄香は不意に足を止めた。振り返れば重々しく頭を垂らし、ただただ少し先の道を見開いた目で見つめる彼女が居た。

「すみ?」と言うと大人びた黒髪のショートボブを風に揺らめく柳の葉のように揺らし、思考のかせを振り解いていた。澄香はすぐに僕との距離を縮めた。

「ううん、何でもない。ちょっと部活のこと考えてただけ」と立ち止まる僕に言い捨て、再び澄香と肩を並べて歩き始めた。

 何かあるように見られてしまったから、人はなんでもないと言うのだろう。彼女の声は暴発しそうな感情を何とか抑えていこんでいるギリギリの声だった。それは触れてはいけない、触れられない領域にある感情。何も聞かなかったし、何も見なかった。

 朝の雑踏ざっとうが耳障りなほど聞こえる。世界は僕たち二人を中心とした半径1メートルの空間にまで狭まっていた。

「ねぇ、爽太」

 そんな狭い世界を切り拓いた言葉は、何よりも爽やかな青色の風に乗って届いた。

「これからもよろしくね」

 小鳥が地に足をつけるようにそっと止まり、軽く握られた小さな右拳が優しく突き出される。誇らしい澄香の笑顔がそこにはあった。澄香と並ぶように僕も止まる。

「こちらこそよろしく」

 互いに顔を見合わせながら、小さな拳に合わせてコツンと左拳を優しく当てた。瑞々みずみずしい宇宙の輝きを秘めた藍色の瞳は永遠に心を委ねたくなるほどに綺麗だった。拳が離れた後も、僕の薄い皮膚に彼女の熱がまだ残っている。

 今日は関東全域が曇りのち雨、太陽も今朝から姿を見せていない。僕たちの学校行事では恒例の冴えない天気での幕開けとなった。

 僕たちは僕たちらしく、中学の続きを再開させることを自ら選んだのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る