第10話『原稿料』
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**第十話:三文の価値**
文が書き上げた『穀潰し』という物語は、私たちの排泄物そのものだった。
恥も外聞も、嫉妬も欲望も、すべて吐き出した汚物。けれど、そこには私たちの体温があった。
作家先生に見せるべきか、夜更けまで議論した。
「また、あの老人の掌の上で踊るの?」
文の言葉が、私の躊躇いを断ち切った。
私たちは、私たちの足で、この汚物を世間に晒しに行くことにした。
翌日、なけなしの金をはたいて汽車に乗った。
幸子の記憶にある出版社の名前だけが頼りだった。
東京の空気は、煤煙と他人の無関心で濁っていた。
みすぼらしい女三人。ボロボロの大学ノート。
何軒もの出版社で、門前払いという名の冷水を浴びせられた。
「予約は?」「紹介状は?」「お帰りください」
受付嬢の冷ややかな視線が、私たちの皮膚を逆撫でする。
数日後、場末の小さな出版社で、ようやく一人の男が顔を出してくれた。
初老の編集者。くたびれた背広に、煙草の染みついた指先。
彼は応接室のソファに深く沈み込み、私たちのノートを無言でめくっていた。
部屋には、古紙とインクの匂いが充満している。
心臓の音がうるさい。文は膝の上で拳を握りしめ、爪が白くなるほど力を込めていた。
「……読ませてもらった」
男が顔を上げる。眼鏡の奥の瞳は、濁っているようでいて、どこか鋭い。
「正直に言おう。文章は荒い。構成も稚拙だ。独りよがりの感情が暴走している」
文の肩が、びくりと跳ねた。
喉の奥に、苦い胆汁の味が広がる。
やはり、ただの素人の戯言(ざれごと)だったのか。
男は煙草に火をつけた。紫煙がゆっくりと天井へ昇っていく。
「……だが」
彼はノートの表紙を、灰の落ちそうな指でトン、と叩いた。
「ここには『熱』がある。血の匂いがする。泥の味がする。……最近の、お上品な小説にはない、獣のような生命力だ」
男の視線が、私たち三人を舐めるように巡った。
「あんたたちが、この物語のモデルか?」
私が無言で頷くと、男は口の端を歪めて笑った。
「なるほど。いい面構えだ」
彼は吸い殻を灰皿に押し付けると、身を乗り出した。
「うちで提携している、地方新聞がある。三面記事の隣、猫の額ほどの小説欄だ」
「……小説欄?」
「誰も読まないかもしれない。広告の隙間だ。……そこに、これを載せてみないか」
「連載……」
文の声が震えた。
「金にはならんぞ。雀の涙だ。……だが、原稿料は出る。あんたたちが明日、米を買うくらいの役には立つ」
原稿料。
その言葉の響きは、幸子の小切手とも、作家の万年筆とも違っていた。
泥の中から掴み取った、一粒の砂金のような重み。
私たちの恥部を切り売りして得る、汚くて、尊い対価。
文の瞳に、じわりと膜が張る。
「……やります」
唇を噛み締め、彼女は言った。
「やらせてください。……私の、私たちの物語を」
男はニヤリと笑った。
「いいだろう。……精々、泥臭くあがいてくれ」
帰り道、駅のホームで立ち食い蕎麦を啜った。
出汁の湯気が、冷え切った身体に染み渡る。
安い蕎麦の、粉っぽい味。
文は丼に顔を埋めたまま、肩を震わせていた。
汁の中に、塩辛い雫が落ちて波紋を作る。
「……よかったわね」
私が背中に手を置くと、文は顔を上げずに首を振った。
「まだよ。……これからよ」
そう。まだ何も始まっていない。
借金は山のようにある。明日の暮らしもままならない。
私たちは、この物語を紡ぎ続けなければならない。生き血を啜るように、自分たちの人生を切り刻んで。
汽車の窓に、自分の顔が映る。
やつれて、化粧も落ちかけの、中年の女。
けれど、その目は死んでいなかった。
闇の向こうに、微かな光が見える。
新聞の片隅。インクの染みた小さな欄。
そこが、私たちの戦場だ。
ここから這い上がる。
泥にまみれ、笑われ、指弾されながら。
穀潰しの女たちの、誰にも媚びない、無様で真剣な戦いが、今、汽笛と共に動き出した。
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