『穀潰し』

志乃原七海

第1話『堕ちる』



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**第一話:黴と残り香**


足の裏に、棘が刺さる。

古い畳のささくれだ。爪先で探ると、かつては青々としていた藺草(いぐさ)が、今や老婆の皮膚のように乾き、毛羽立っているのがわかる。

廊下を歩けば、床板が悲鳴のような音を立てる。この家は、私たち三姉妹の重みだけで、じわりじわりと泥濘(ぬかるみ)へ沈んでいくようだ。


玄関の式台には、乾いた泥がこびりついている。

かつてそこには、父の事業の顧客たちが列をなし、艶やかな革靴が黒光りしていた。

父は、私たちに財布の中身を見せたことはない。ただ、季節ごとに運ばれてくる仕立物の箱や、舶来の甘い菓子の匂いだけが、世界そのものだった。

「文、お前には緋色が似合う」

「和恵は藤色だ。月のようにしとやかでいなさい」

母は父の言葉を神託のように受け取り、私たちはその祭壇に捧げられる花だった。水と光は無限に降り注ぐと信じていた、あの日々。


記憶の底から、モーターの唸る音が聞こえる気がした。

私が女学生の頃、父が買ってきたドライヤー。あの銀色の冷ややかなボディから吐き出される熱風は、魔法だった。


「お姉様、まだ? 髪が冷えちゃうわ」

「次は私よ、ずるい」


風呂上がりの湯気が立つ部屋で、私たちは一本の温かい風を奪い合った。

父も母も、それを微笑んで見ていただけだ。けれど、あの熱風の中で私たちは無意識に学んでいたのだと思う。

この世の幸福の総量は決まっている。誰かが温まっている間、誰かは寒さに震えて待たねばならないのだと。


そのドライヤーのコードはとうに断線し、納戸の闇で埃を被っている。

太陽だった父も、その光を反射するだけの月だった母も、もういない。


「……ない」


米びつの底を掌で撫でる。指先に触れるのは、冷たい木の感触と、わずかな糠(ぬか)の粉だけ。

空腹が、胃壁を内側から爪で引っ掻くように訴えてくる。


背後で、紫煙がゆらりと立ち昇った。

ちゃぶ台に頬杖をついた文(ふみ)が、けだるげに煙草をふかしている。都会で何があったのかは語らないが、実家に戻ってきてからの妹は、安物の香水とヤニの臭いを皮膚に染み込ませていた。


「なに、その音。お腹の虫?」

吐き出す煙の向こうで、文の口角が歪む。

「みっともない。お姉様がそんなだから、家の中まで湿っぽくなるのよ」

「誰の分までやり繰りしてると思ってるの」

「恩着せがましいわね。昔みたいに、どこかの旦那様に媚びてくれば? ああ、もうそんな若さもなかったわね、お互いに」


文の言葉には、常に微量の毒が含まれている。言い返そうとした喉元で、言葉が詰まる。

事実だからだ。私たちにはもう、売るべき若さも、頼るべき後ろ盾もない。


奥座敷の襖の向こうから、押し殺したような忍び笑いが漏れてくる。

三女の幸子だ。

一日中、万年床の中でラジオにかじりついている。落語家の甲高い声と、幸子の乾いた笑い声。それは現実から目を背け、耳を塞ぐための儀式のように聞こえた。かつて恋に破れ、心を閉ざした妹は、そうやってこの腐りゆく家の一部になろうとしている。


私は唇を噛み、台所の吊り戸棚を見上げた。

そこには、まだ手をつけていない領域がある。開けてはならない、けれど開けざるを得ない、最後の砦。


踏み台に乗り、強張った指で戸を引く。

黴(かび)と樟脳(しょうのう)の匂いが、どっと溢れ出した。母の匂いだ。

桐の箱を取り出し、ちゃぶ台の上に置く。重たい音が、湿った空気を震わせた。

文が煙草を持つ手を止める。奥の部屋から、ラジオの音がふっと途切れた。


「これを、処分するわ」


私の声は、思いのほか低く響いた。

文が目を見開く。

「……正気? お母様の一張羅よ。あの藤色の訪問着……」

「お米に変えるの。他に何があるのよ」

「プライドがないわけ? 泥棒にでも入られた方がマシだわ!」


ヒステリックに叫ぶ文を無視して、私は箱の紐に指をかけた。

紐は古びて硬く、指に食い込む。これが解ければ、私たちは本当にただの「穀潰し」から、何も持たぬ流浪の民へと堕ちる。それでも、明日の米が要る。


「……無駄よ」


不意に、影のような声がした。

いつの間にか、幸子が柱の陰に立っていた。ボサボサの髪の隙間から、うつろな目が桐箱を見つめている。


「無駄って、何が」

「それ、お金になんかならない」

幸子は幽霊のように足音もなく近づくと、細い指で箱の蓋を押さえた。

「あたし、見たの。ずっと前に」

「見たって……」

「裏地。背中のあたり。大きな茶色いシミが広がってる。お母様、最期の方は寝たきりだったでしょう。……たぶん、あの時の」


幸子の言葉は、文の罵声よりも鋭く、冷たく、私の腹の底を刺した。

母の誇り。父が愛した美しさ。

それが、排泄物とも汚物ともつかぬシミに変わっているというのか。


文が、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。

じゅっ、と微かな音がして、火が消える。


私は箱にかけていた指を、ゆっくりと離した。

開ける勇気も、確かめる気力も、一瞬にして蒸発してしまった。


私たちは、まだ底にいなかったのだ。

堕ちて、堕ちて、地面に激突したと思っていたのに、その下の泥沼はずっと深かった。


台所の窓から、灰色の光が差し込んでいる。

米びつは空だ。

三人の女と、シミのついた着物と、沈んでいく家。


私はただ、ささくれだった畳の目を、ぼんやりと数えるしかなかった。

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