第16話_色砂でたどる“帰り道”(後ずさり実験)

 翌日の放課後、昇降口からまっすぐ伸びる渡り廊下の先に、薄い日がさしていた。雨は止み、校庭の砂は表面だけ乾いて、足を置けばふわりと盛り上がる。6年3組は砂場の一角に集まり、有里が両手で抱えた道具を机代わりの台に並べた。小さな旗、竹ひご、ビニールテープ、チョーク、それから霧吹きと柔らかい刷毛。

  「今日は“逆向きに見える足跡”の正体を確かめる。安全管理は彩加。私は実演。藍は観察と判定、莉菜は図と記録。慎太郎は人の導線。純一は実況。翔也は……危ないと思ったら即ストップの声出し」

  役割がすらりと決まり、全員が小さく頷いた。

  まずは基準線を作る。砂場の縁から二メートル、竹ひごでまっすぐ線を引き、黄色のテープでスタートとゴールを示した。

  「最初は“ふつうの歩行”。次に“つま先立ちで後ずさり”。蹴り砂の方向と、縁の毛羽立ちの違いを見よう」

  有里が靴紐を締め直し、深呼吸してからスタートラインの内側に立つ。

  「行きます」

  ざっ、ざっ。かかとから土が沈み、つま先で軽く蹴るたび、前方にごく細い砂の飛びが点々と残る。足跡の縁は進行方向の前側で少しだけ毛羽立った。

  藍がしゃがみ込み、旗の先で矢印を描いていく。

  「前へ。蹴り砂は前方。縁の毛羽立ちは前側優勢。――通常の歩行サンプル」

  莉菜は方眼の透明シートをかぶせ、輪郭をトレースして番号を振る。

  次が本題だ。彩加が「後ろは私が見るね」と位置につき、有里はつま先に体重を寄せた。

  「転びそうになったら、すぐ止めます」

  「うん。五歩だけ」

  有里は両手を軽く広げ、かかとをそっと浮かせる。――ざっ、ざっ。足は後方へ下がるのに、つま先が砂を手前へ引っかき取る。足跡は“前に向かっている”ように見えるのに、蹴り砂は逆向き、縁の毛羽立ちは“手前側”に強く出た。

  「ほら!」

  純一が身を乗り出す。

  「逆向きスニーカーだ! 足跡が“来たのか帰ったのか”分かりにくい感じ!」

  藍は淡々と旗を置き替えた。

  「進行は“後方”。蹴り砂は手前、縁の毛羽立ちも手前。――“帰り道”。見かけ上は前進に見えるけど、痕跡が逆」

  莉菜のシートに二本の矢印が並び、“見かけ”と“実際”が描き分けられる。

  「じゃあ、これも確かめたい」

  翔也が霧吹きを手に取り、砂の表面にうっすら水をのせた。

 「濡れてるとどう変わる?」

  「飛びが少し重くなる。倒れやすいから後ずさりは禁止」

  彩加の判断で、今回は安全第一。かわりに有里が“超小幅の後退”を一歩だけ行い、蹴り砂の重さを比較した。

  「乾いたときより、砂の塊が大きい。手前の集まりがはっきりするね」

  藍が記録に“湿潤時は手前の塊増”と加える。

  砂場での検証が進む中、慎太郎は周囲の低学年に声をかけて歩いた。

  「今“逆向きに見える足跡”の実験中だよ。通るときはこのテープの外側をお願いね」

  子どもたちは「へー」と目を丸くし、足元の砂を覗き込んでから遠回りしてくれた。

  「次、廊下でも再現したい」

  藍が顔を上げた。

  「昨日の“理科標本ケース前で、来るときも帰るときも向きが同じに見えた濡れ足跡”――あれ、“後ずさり”で説明できるかもしれない」

  「安全上、床に水を使うときは範囲限定で。モップとマット、用意する」

  彩加が保健室の鍵を借りに走り、戻ってくると、廊下の一角にマットを敷いて作業範囲を囲い、掃除用のバケツに少量の水を張った。

  「ここだけ、うすく。滑ってもマットに出られるようにしてある」

  有里がスプレーで霧状に床を濡らし、まずは“普通の前進”を一往復。床にはつま先のごく細い前方線と、かかとの淡い滲みが順番よく現れた。

  「次、“つま先重心で後ずさり”を二歩だけ」

  彩加が位置につき、「はい、ここ」と背中側の安全を見守る。

  ――きゅっ、きゅっ。

  木目の上にできた濡れ跡は、確かに行きも帰りも“同じ矢印”に見えた。けれど、拡大して見ると、縁の毛羽立ちはことごとく“手前側”。

  「理科標本の前も、これだったのかも」

  純一が目を丸くしてしゃがみ込む。

  「“同じ向きに見える”のは、実は行きが通常歩行、帰りが“つま先後ずさり”。二つの痕跡を“見た目”で並べると、どちらも“前向き”に見えちゃう」

  藍が床に小さく矢印を描き、二枚の透明シートを重ねた。

  「前進の矢印→」「←後退の蹴り砂」。

  重ねると、向きが一致してしまうのだ。

  そのとき、廊下の角から瑛太がこちらを覗いた。手には雑巾とスプレー。

  「……なに、してるの」

  声がいつもより小さい。彩加が手を止め、「安全テストだよ」と柔らかく説明すると、瑛太は目線を落とした。

  「ねえ、昨日の“標本ケース前の濡れ跡”、もしかして……」

  藍が言いかけると、瑛太は小さくうなずいた。

  「……僕。昼に、標本のプレートを拭いたら、水がこぼれて。先生が戻る前に片づけようとして、慌てて……。あの、廊下にちょっと水が残ってたの、分かってたけど、叱られたくなくて……。確認しないで、すぐ雑巾をしまっちゃった」

  言葉がところどころ途切れる。

  「動きは?」

  藍が責める色を含めず、ただ確かめる。

 「後ろに人が来てないか気になって……標本を背にして、つま先でちょっとずつ下がりながら拭いた。ワックス、踏みたくなくて。で、そのまま……」

  「だから“帰り道”が、見た目“前向き”になった」

  有里が小さく息を飲み、すぐに「ありがとう、言ってくれて」と続けた。

  「叱られたくないって思うの、分かる。でも、濡れた廊下は危ない。次は“確認してからしまう”。私たちも範囲をコーンで囲って“見えるようにする”から」

  彩加が優しく言い、雑巾とマットを指し示した。

  「今、一緒に“もう一回拭く”をやろう。『濡れた床注意』の札、つけてから」

  瑛太は「……うん」とうなずき、札を手に取って先に掲げた。指先が少し震えていたが、その仕草は確かだった。

  作業範囲を拭き直し、マットを片づけると、藍は黒板用の小さなカードに今回の“見分け”を書き出した。

  【足跡の向きを読む三要素】

  ①踵の深さ(深い側が“入ってきた側”になりやすい)

  ②蹴り砂(乾いた砂なら“進行と逆側”に集まる)

 ③縁の毛羽立ち(向きの“前側”か“後側”か)

  「ひとつだけで断定しない。二つ以上そろったら“仮説採用”、ズレたら“再検証”」

  莉菜が整った字で清書し、掲示用のミニポスターにした。

  「砂場にも貼ろう。校庭ワークのときに使える」

  純一が笑って親指を立てる。

  夕方の光が校舎の端を薄く染める。砂場に残した二列の足跡は、片方が“見かけ”の矢印、片方が“痕跡”の矢印を示していた。

  「“帰り道”は、後ろ向きでも、痕跡が教えてくれる」

  慎太郎の言葉に、翔也が「名言二つ目」と小さく笑った。

  有里は最後にもう一度、つま先で短く後ずさりし、足跡の縁を指で確かめた。

  「これで、砂場の“逆向き”は説明できる。廊下の矛盾も、たぶん」

  藍がうなずき、カードの余白に小さく次の課題を書き足す。

  「“後ろ前に履くと、濡れ跡はどう見える?”――靴を逆に履いたときの滑り方向。明日、紙に転写して矢印を入れよう」

  彩加が安全の消耗品を箱に戻し、瑛太は札を丁寧に拭いてから所定の場所に戻した。

  「次は、叱られないように“先に言う”。……それで、分かってもらえるといいな」

  自分の胸に向けた小さな決意に、有里が「うん」とだけ答え、背中を軽く叩いた。

  砂の矢印が、夕方の風で少しずつ崩れていく。けれど、紙に写した矢印は消えない。明日の実験用に、そのまま図工室の引き出しに収められた。

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