第6話_鏡前で読むと整う

 昼休みが終わると同時に、彩加は藍を伴って保健室へ向かった。朝から気になっていた、あの“読みにくいメモ”のことだ。鏡台の前にだけ置かれている理由を確かめるには、実際にそこで読んでみるしかない――藍がそう提案したのだ。

  引き戸を開けると、午前中の涼しい空気はまだ残っていた。窓からの光が斜めに差し込み、鏡台の縁をやわらかく照らす。

 「まずは普通に読む」

  藍が淡々と告げ、彩加は紙を手に取った。

 「『包帯→白い箱の左となり』……やっぱり左右が混乱する」

 「次、鏡越しで」

  藍は紙を鏡の前に立てるように置き、その前の丸椅子を引いた。彩加が腰を下ろすと、鏡に映った文字が反転し、矢印の向きも逆になる。

  ――あれ?

  「……こっちのほうが、棚の配置と合ってる」

  試しに「消毒→青いふた」を探すと、鏡像の矢印は棚の右端を指し、その場所には確かに青いふたのボトルがあった。

  「やっぱりそうだ」

  藍が小さくうなずく。

 「このメモは、鏡に映して読むことを前提に作られている。つまり“鏡文字”」

  「鏡文字って、わざと書くの?」

  彩加が尋ねると、藍は少し考えてから答えた。

 「特別な訓練をすれば書けるけど、普通は紙を鏡の前に置いて反転を確認しながら作る。……この場合、書いた人は最初から反転を想定してた可能性が高い」

  「じゃあ、どうしてそんな手間を?」

  藍はその問いにはすぐ答えず、机の上の紙の端を指さした。

 「ここ、見て。鉛筆の線がわずかに波打ってる。鏡越しに見ながら書くと、手元の感覚と視界がずれるからこういうブレが出やすい」

  そこへ煌大が顔を出した。

 「お、実験中?」

 「うん。これ、鏡で読むとちゃんと意味が通るの」

  彩加が説明すると、煌大は「やってみたい!」と丸椅子に座り込み、鏡越しにメモを覗いた。

 「おお、ほんとだ。“体温計→青い箱の左”……あった!」

  嬉しそうに引き出しを開ける様子に、彩加は笑ってしまった。

 「なんか、宝探しみたいだね」

 「だろ? もしかして、これ作ったやつ、遊び心でやったんじゃない?」

  煌大の推測に、藍は首を横に振る。

 「遊び心かどうかはまだ判断できない。ただ、この形式だと、鏡の前に来た人しか読めない。つまり“限定的な人”にだけ伝えたかった可能性がある」

  藍が言葉を切ったとき、教室から駆け足で純一がやって来た。

 「おー、いたいた! あのメモ、俺が書いたんだよ」

  三人の視線が一斉に純一へ向く。

 「えっ、なんで鏡文字?」

  彩加の問いに、純一は頬をかきながら少し照れくさそうに笑った。

 「昨日さ、放課後にここで鏡文字の練習してたんだよ。面白くてさ。そしたら、片付ける前に養護の先生が『明日来られないから、必要な物の場所を分かりやすくしておいて』って言ったから、ついそのまま鏡文字で書いちゃった」

  「……それでこの場所に?」

  「うん、鏡の前なら、俺が試したときと同じ見え方になるから」

  藍が小さくため息をつく。

 「意図はわかった。親切のつもりだったんだな」

 「でもさ、普通の文字でもよかったんじゃない?」

  煌大が茶化すと、純一はますます顔を赤くした。

 「だって、普通に書くより面白いし……みんな気づいてくれたら楽しいかなって」

  彩加は笑いながら、紙を丁寧に半分に折った。

 「じゃあ、次からは普通の文字でお願い。でも、この鏡読みの仕組みは面白かったよ」

  四人で鏡台の前を離れるとき、藍はちらりと鏡面の隅に目をやった。昨日から残っている🔍🪞の記号が、まだうっすらと残っている。

 「これ、純一が描いたの?」

 「え? 違うよ。俺、こんなの知らない」

  純一の反応は本気らしい。藍はそのまま何も言わず、記号をノートに写し取った。

  廊下に出ると、昼下がりの光が明るく足元を照らす。

 「じゃ、鏡文字の件は解決っと」

  煌大が伸びをし、純一の背を軽く叩いた。

 「ありがとな。おかげでちょっとした推理ごっこができた」

  純一は「ごっこって言うなよ」と抗議しつつも、どこか誇らしげに笑った。

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