第4話_読めないメモ(鏡前限定)
昼休みのチャイムが鳴り終わるころ、教室の後ろで「ちょっと血が出た」と声が上がった。紙で指を切ったらしい。保健室の当番表を見た有里は、迷いなく立ち上がった。
「私、行ってくる。絆創膏もらえばすぐだから」
返事を待たず、廊下をすばやく駆ける。昇降口側の曲がり角を一つ、二つ。扉にぶら下がる「昼休みは自由利用」の札を確認し、引き戸を開けた。
しんと涼しい空気。窓は半分だけ開き、風がカーテンを軽く持ち上げている。ベッドは三台。右側の棚、左のワゴン。忘れないよう、朝の復習で見た並びを脳内でなぞる。
「絆創膏、絆創膏……」
つぶやきながら視線を走らせた有里は、そこでぴたりと足を止めた。鏡台の前、丸椅子の上に、折り畳まれた紙が一枚、きちんと置かれている。白い紙の上半分に、濃い鉛筆で何やらびっしり。矢印、記号、短い単語。
めくると、最初の行に大きく「薬の置き場」と書いてある――ように見えるのだが、よく見ると字の形がどこか歪んでいる。ひらがなの“し”が反り返っていたり、“お”の輪が膨らみすぎたり。意味は取れるのに、読むほどにひっかかる。
有里は紙を持ち上げ、鏡台の天板に肘をついた。
「えーと、『たいおんけい→上から二段目の右』『消毒→青いふた』……」
行を目で追うたび、矢印の向きと棚の配置がずれていく。右と書いてあるのに左の棚の形を指していたり、矢印の先に実物がない。
「おかしいな」
眉を寄せて紙縁をつまむと、指先にかすかな粉っぽさが移った。紙の端に、扇形のような薄い汚れ。ひとの指紋が擦れたときによくできる、半月状の影。しかもそれが、短い辺に沿って縦に三つ並んでいる。普通、紙を上から抑えるなら長辺に指がかかるはずなのに、これは短辺を手前にして持った形跡だ。
――縦長に使ったのではなく、横にしたのかも。あるいは、どこかに立てかけて読んだのか。
とにかく絆創膏だ。紙から視線を離し、朝覚えた場所を頼りにワゴンの引き出しを開ける。薄い箱を一本抜き取り、扉へ向かいかけて、もう一度だけ振り返る。鏡台の前にだけ、紙がある。棚の上やワゴンの取っ手にも、メモは見当たらない。
小走りで教室に戻り、傷の手当てを済ませると、有里はすぐに彩加の席へ行った。
「保健室に、ちょっと変なメモが置いてあった。鏡の前。見てほしい」
話しかけられた彩加は顔を上げ、うなずいた。
「わかった。先生、今は職員室? ……いないから、私たちで確認しよう」
二人で保健室へ戻る。彩加は入るなり、まず窓を閉めるかどうか迷い、軽く半分だけ下ろした。紙が風で動くと、見落としが出るからだ。
「これ?」
「うん。書いてある言葉は正しいんだけど、矢印の向きが合わない」
彩加は紙を両手でそっと広げ、鏡から少し離して読む。
「『包帯→白い箱の左となり』……白い箱ってどれのこと? 上の段は青い箱が多いよね」
「だよね。『冷却材→小さい白い扉の中』は合ってるけど」
二人で首を傾げていると、「どしたどした」と声がして、煌大が顔を出した。教室で噂を聞きつけたらしい。
「宝の地図でも見つけたのか?」
軽口に彩加が笑いかける。
「そうだったら楽しいけど、これは保健室の“地図”みたい。なのに、読むと迷子になる」
「へえ、俺にも見せて」
煌大は鏡台の前に立ち、紙を片手で持ち上げた。そのとき、鏡面に紙背の鉛筆の圧痕が、斜めの光でうっすら浮いた。線が一定の太さで、ところどころ急に薄くなる。途中から、書く向きが変わっている箇所もある。
「……ん?」
煌大は紙を元に戻し、今度は鏡に映った紙の像をぼうっと眺めた。
「なんか、映すと……ちょっと読みやすい気がする?」
「気のせいじゃない?」
彩加が笑って流す。だが、有里は鏡台の足元に目を落とした。床の埃が細い弧を描いている。丸椅子を少し動かしたような、輪の跡。誰かがここで座って、紙を前にして何度か姿勢を直したのだろう。
そこへ、藍が理科室帰りのノートを抱えて入ってきた。
「保健室に人だかりって珍しいね。何かあった?」
「ちょうど良かった。これ、読める?」
紙を受け取った藍は、無言のまま数行を目で追い、「矢印と単語が一致しない」と短く言った。
「ね、そうでしょ」
「でも、書き手の癖は整っている。急いで殴り書きした感じではなく、落ち着いて書いている手だよ。あと……この指紋の向き。短辺側に縦配置。紙を横にして持って、すぐ下に何かがあったはず」
「鏡台?」
有里が鏡を顎で示すと、藍はうなずいた。
「可能性は高い。鏡台に紙を立てて読んだなら、指の位置はこうなる」
藍は自分の指を短辺の端に添え、示してみせた。確かに、半月の汚れの向きと一致する。
「つまり、先生がここで何かの手順を書いて、置いていった……でいいんだよな」
煌大がまとめるように言うと、扉の外から翔也が顔をのぞかせた。
「先生が、こんな分かりにくいメモを書かないよ。見られたくないなら鍵かけるでしょ。俺は“いたずら”に一票」
「いたずらって……」
「だってさ、『ガーゼ→箱のななめ右下』って何? “ななめ右下”って、人によって違うだろ。混乱させたい感じがするじゃん」
翔也はわざとらしく肩をすくめ、話の主導権を握るみたいに鏡台の前に立つ。
「誰かが目立ちたくてやったんだよ。放送で謝らせるべきだ」
ネガティブな仮説が空気を冷たくする。彩加は小声で「決めつけないで」と言い、鏡台の天板を布で軽くなでた。朝からの拭き跡が斜めに伸び、そこだけ艶が違う。
「まず、書いた人が本当に“いたずら”のつもりかどうか、確かめよう。先生にもあとで聞くから」
「先生の字かどうかは、比べればわかる」と藍が言い、保健だよりの掲示を手に取って見せた。白い紙に印刷された標語の下、赤ペンで書き足された“うがい・手洗い”。線の角の丸さが、鏡前のメモとは明らかに違う。
「線の入りと抜きが違う。先生の“あ”は上から回り込むけど、メモの“あ”は横から入ってる」
「じゃ、先生じゃないのか」
煌大が首筋を掻いた。
「でも、誰かが親切で場所を書いて、たまたま分かりにくくなっただけかもしれない」
彩加が言葉を足す。
「意地悪じゃなくて、“良かれと思って”ってことね」
「それなら、置く場所が鏡の前なのも説明できる。座って、顔を上げた位置にちょうど目に入るから」
藍が淡々と推測を並べる一方で、有里はメモの下半分に目を止めた。
『体温計→青い箱の左/右(※)』
“左/右”に小さく(※)と書き添えられ、横に丸で囲った「反転」の字。鉛筆の筆圧がそこだけ薄く、書いた人が悩んで消しかけた跡が見える。
反転、という言葉がひっかかった。――反転? 何が? 左右が? 視界が?
鏡台の鏡面に視線を移すと、昼の光が細く斜めに差し、拭き残しの線が浮いている。その線に沿って紙を傾けると、矢印と文字の位置関係がほんの少し整って見えた。
「彩加、これ、こうやって読むと……」
言いかけると、翔也が遮った。
「え、鏡に写すの? それ、遊びだろ。保健室でやることじゃないって」
有里は肩をすくめ、言葉を飲み込む。推理を言い切れるだけの材料は、まだ足りない。
そこへ、慎太郎が控えめに扉を開けた。
「ここ、人が多いけど……大丈夫?」
「メモがね、ちょっと変で」
状況を聞いた慎太郎は、まず鏡台の前の椅子を壁側へ少し寄せた。出入りの動線を広げて、皆が落ち着けるように。
「決めつけないで、一回メモの通りに探してみよう。もし“意地悪”なら、見つからないし、親切ならどこかには辿り着ける」
その提案に、彩加が素直にうなずく。
「じゃあ、私がメモを読み上げるね。『消毒→青いふた』、青いふたは……これ?」
「いや、それは鎮痛ジェル。消毒はこっちの透明のボトル」
「次、『包帯→白い箱の左となり』」
「白い箱、いくつもあるな」
行く先々で、棚の“左右”が曖昧になる。鏡の前に立つと、左右の感覚がふっと揺らぐ。
五分ほどの“探索”の末、紙の指示で見つかったのは、体温計一本だけだった。それも、鏡台のすぐ右の引き出し――朝、有里が見た場所とは違う。
「やっぱり、おかしいね」
「先生じゃない。けど、完全ないたずらとも言い切れない」
彩加がメモを胸の前でそっと折り、鏡台に戻して置いた。置き方は、最初にあった向きのまま。短辺が手前、鏡に向かって立つように。
鏡面の隅に、誰かが描いた小さな落書きがあるのに、有里が気づいた。チョークで描いたような、🔍🪞の二つの絵文字にも似た記号。黒板消しでこすれば消えそうな薄さ。
「……前からあったっけ、これ」
「見たことない」
煌大が覗き込み、肩をすくめた。
「何かの合図、だったら面白いのにな」
軽い冗談に、彩加は笑いながらも、その記号をノートに写し取った。
昼休みの終わりを告げる予鈴が、保健室の静けさにすべり込む。
「一度教室に戻ろう。放課後、先生に聞こう。それと……」
彩加が鏡台をふと見やった。
「この紙、鏡の前にだけ置いてあるの、ちょっと気になる。なんでここ限定なんだろう」
問いだけが、部屋に置き去りになる。鏡台の表面を薄く走る斜めの拭き跡が、斜光の中で一本の線に見えた。
その線の先に、答えはあるのだろうか――今はまだ、誰も知らない。
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