第2話「悪魔と呼ばれた男」
「アァ? 藤井のオッサンが死んでる? だから言ってただろ。そうなるってよォ……。ちゃんと金は移したよな?」
そんな物騒なことを口走るのは、アッシュグレイの長髪を
派手な柄物の羽織に身を包み、腕には数珠のブレスレット。掛ける眼鏡は薄い色付きのラウンドフレーム。如何にも胡散臭い雰囲気を纏っている。
それはオフィスの一角、磨りガラスのパーテーションで区切られた場所。最低限のミーティングテーブル、スタッキングチェア。離れて配置されたデスク……。どれも格調高いというよりは、実用に即した機能的なデザインの調度品が並ぶ。
多くの人が洗練された仕事場、と言った印象を受けるだろう。
小綺麗なオフィスにそんな
若き成功者。その表現は、彼を表現する言葉として的を射ている。その先頭に"ある意味では"、と
だが、その言葉遣いとエグゼクティブデスクを足蹴にする姿は、およそ一般企業には似つかわしくない。
そして電話口で話す内容も、また──
「……アァ、そうか。……あ? 報復だァ? よせ、出てきたのは《蛇》だろ。楽に勝てる相手じゃねぇよ。金持って帰ってこい。精々死なねぇように気をつけろよ」
彼は『差し控えるように』という旨を伝えると、そこで部下への指示を打ち切り、スマホを机上へ放る。
その見切りの良さから、潔い損切りにも見える一幕。ただし、その実これは売り逃げに近い。
既に金とここへ繋がる足取りは回収済み。藤井などという小物は、切り捨てた尻尾に過ぎない。
男は、この街における
昨今の風当たり強い裏稼業連中に比べ、彼らの勢力は拡大の
ただの半端者達が組織化され、ここまでの力を得たのは
生まれ落ちて無常には名がなかった。生まれ落ちた瞬間から寄る辺はなく、戸籍すらない。
そういう手合いは裏で重宝されるとはいえ、せいぜい鉄砲玉として使われるのが関の山だ。
拾い上げられたとて、いくら足掻こうと、そのドン底からのし上がることは不可能。
だから無常因果は力のみでまとめ上げた。
たった一人で力のみを
何も持たなかったその手に、駒が握られた。
その力とは、頭脳である。
ある時は、違法な取引現場をピタリと読み当て、制圧し組よりも先に流通ルートを抑えた。
ある時は、これから台頭する組への手土産として敵対組織全員をラッピングし、プレゼントした。
ある時は、誰も知り得なかった中華マフィアの潜伏先を警察へ売り込んだ。
ある時は、組織犯罪のバックに控える政界の重鎮を引き
遂には、経済のケの字も知らぬまま、このフロント企業を急成長させるに至る。裏社会、経済界、政界……もはやこの期に及んで無常を知らぬ人はいなかった。
無常が読み解き、弾き出すのは
げに恐るべきは、どんな名探偵の推理よりも冴え渡るその灰色の頭脳。
裏も表もなく、誰もがその脳を恐れた。
いつしか決定論を象徴する空想上の悪魔に
無常は引き出しから一通の封筒を取り出す。
これは
人差し指でトントンと机を叩く。
心が躍っていた。無常にとって、さながら先の呼び出し状は恋文のような物。今もその胸に心地よい高鳴りを
まるで悪い夢のような、チープな妄想のような絵空事。この空の下、その何処かで馬鹿げた祭りを起こそうとしているヤツがいる。
その事実が、無常のニューロンを大いに
深い意味もなく、ボールペンをノックする。そんな手遊びをするくらいに、上機嫌らしかった。
そんな折、ガラス戸が割れんばかりの勢いで開け放たれる。
「失礼します!
「アァ半田か。オウ、ご苦労さん。あとは時期を見て俺がやる」
無常はノックもせずに入室した部下を咎めもせず、鷹揚に労ってみせた。彼の機嫌がよかったのが幸いした。
或いは『ちょっと中華系マフィアの隠れ家に行ってインネンをつけてこい』。そんな常人であれば
半田と呼ばれた男は、無常に程近い椅子に腰を落としながら疑問を口にする。
「え? 時期を見るって、無常さん一人でやるんですか? でも、あそこにはまだバケモンじみた
「だから、俺がやんだろうが。逆にお前らに《
無常は
相手が同じ域にあるのを認めつつ、それでなお自分が上だと断じる傲岸不遜。
無常は知っていた。
世に多く
それ故の
「バケモンっていえば、例の件はどうするんですか? あの噂の。ほら、十六がどうとか──」
半田の言葉に、無常は手を止める。
「──
無常は体を背もたれに預け、天を仰ぐ。
伸びをしながら努めて平静を装うが、その高揚を隠しきれていない。
いや、元より隠す必要もなかった。
「まァ、やってみっか。別に死にゃしねぇ」
「それ、大丈夫ですかね?
この半田という男、この街の危険地帯に身を置きながらも凡庸。所詮は半端者の発想だった。
危険。未知。だからこそ行く。
異常者は内なる渇きを満たす為に、凡百よりも異常を
それは、無常も例外ではなかった。
「だからいいんだろ。俺達みたいなのはな、全力ってのを出してみてぇモンなんだ」
無粋なことを言う半田へ手にしていたボールペンを向ける無常。
無常はそれを嫌というほど理解していた。
実感として承知していた。
「そんなもんですか? でも、まったくの予想外ってこともあるでしょう」
そう言うと、半田は懐に手を入れる。
「たとえば──今日、自分が殺される事とか」
胸元をまさぐっていた半田の手には、人殺しの鉄──拳銃が握られていた。
銃口を無常へ向けたままミーティングテーブルを蹴り上げ、立ち上がる。
それが合図だったのだろうか。
奥からぞろぞろと現れるゴロツキ共。その中にはどこから調達したのか、機関銃を手にした者も見えた。
この場に集結した人数は二十を超えていた。その全てが武装している。
「はは、さしもの"悪魔"も予想できなかったろ? この人数は」
「……アァ、びっくりだわ」
無常は心底呆れ果てた声を洩らす。
「この展開もわかってはいたけどよ。本気なんだな。マジにこの程度で俺を殺せると踏んでるたァ恐れ入るぜ。そんなんでも俺の駒やってたんだよなァ?」
雑兵が百や二百来た所で、無常の退屈は晴れない。その傷の深さを確認する度に、彼の胸中は切なくなる。
半田が裏切ることはわかり切っていた。無常はその上で放置していたのだ。少しでも面白くなるのであれば、と。
その試みは、気を紛らわすペン回しと同じこと。結果は彼の思った通り、くだらない結末ではあったが。
「……負け惜しみか? ペンしか持ってないだろうがよ。お前はいつもそうだ! 口ではデカいこと言っておきながら、その癖に小心者なんだ!」
半田は怒鳴り散らすと、苛立ちと共に椅子を蹴飛ばす。
「お前はガサ入れやら裏切りに逢う前に、いつも逃げ出してただろ? その"悪魔的な勘"は恐るべきだが、ただ賢いだけのガキなんだよ」
銃の前では無力と言いたげに、その拳銃を見せびらかす。
対する無常は眉根一つ動かさない。
そう、彼は知っていた。実に馬鹿らしい展開であるが、こうなってしまうことを。
そして、その結末をも見通している。
「……マァ、三つくらいか」
「は? ……何がだ!」
無常は足を組み替える。緊張はなく、リラックスした表情を浮かべていた。
「お前の犯した
《悪魔》が示す
それは、半田が食い殺されるまでのカウントダウンでもあった。
「まず第一ィ、勘違い。俺が逃げなかったのは、単に
その指を一つ、折り曲げる。
凡人には逃避に見える転居も、その実、羽虫に
そこからして半田はズレていた。無常のスケールを推し量れてなどいなかったのだ。
「次に第二ィ、人選ミス。お前さァ、人集めんならもっと他所から持ってこいよ。そいつら、本当に信用出来んのかァ?」
指折り二つ。
半田はその言葉に弾かれたように、首を右へ左へ。その持てる力、コネクションを最大限に利用して集めた武力を見渡す。
その誰もが半田と目を合わせようとしない。
当然だ。その全員が無常の息がかかった兵隊なのだから。
半田は怒りと
まるで釈迦の掌で騒ぎ立てていた猿のようだ。
「最後に第三だァ。見当違い。俺ァ別に頭でっかちじゃねぇ。この倍の数が来たとて、支障ねぇ」
最後に残った人差し指。
それを顔の前で
この程度では問題なし。その言葉が、その態度が半田の神経をさらに苛立たせた。
「テメェ! 減らず口をッ!」
破裂音。焚かれるマズルフラッシュ。
弾丸を吐き出した銃口から、煙がのぼる。
果たして、膝をついたのは半田だった。
その胸が赤く染まっていく。
拳銃の真ん前に居座ったままの無常には傷一つない。生あくびすらかいている。
手には、先端の溶けたボールペン。
跳弾。
弾丸の軌道、タイミング、総じて計算尽く。現在この場の全てを把握する無常には、自然なことだった。
高い所から低い所へ水が流れるように。
腐った肉が土へ帰るように。
無常にはごく当たり前の結末だった。
「少しは一緒に仕事した縁だ。最期に教えといてやるよ。冥土の土産ってヤツだ」
無常はボールペンを投げ捨て、跳ね起きるようにして椅子から飛び上がり、半田の眼前へ。
「俺がやってんのは予測であって、勘じゃねぇ。キチンと種も仕掛けもある──ま、お前の残念なオツムじゃどっちも大差ねぇだろうがな」
過ぎた科学は魔法と見分けがつかない、と言ったのはどの作家だっただろうか。
理解の及ばない領域では、凡夫の感性は理解を諦める。全てを一緒くたに、超常という括りに押し込めて外へ追いやるのだ。
それこそ"逃避"であると、半田は死に際に理解できた。同時に、目の前に立つ者の恐ろしさを知った。
「──あ、悪魔」
その言葉を最後に、半田は崩れ落ちる。
苦悶に染まる半田の死に顔と対照的に、無常は憐れむような、物悲しい表情を湛えていた。
「アァ、知ってるよ。俺はずっと前から知ってたが、お前は随分と遅ェんだな」
彼は全てを予測する。灰色の《悪魔》。
その瞳にはもう反逆者など映らない。今、彼が見据えるのは同じ領域に居るだろう化け物、金参会の《金蚕蠱》のみであった。
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