書記の手記
この記録は正確でなければならない。
誤りがあれば、神の裁きに背くことになる。
そう教えられてから、もう三年が経つ。
蝋燭の芯が短くなり、火が紙の端を照らす。
墨のにおいが濃い。部屋の空気は眠りを許さない。
私は木の机の前で、筆を立てたまま止まっている。
——今夜も、名が書かれる。
一行のはじまりに「被審問者の陳述」と記し、
次の行に「証言者の名」を書き足す。
だが、言葉は紙の上で形を変える。
痛みで引き出された声は、私の筆を通ると「証」となり、
やがて「罪」になる。
あの娘もそうだった。
白い指に縄の跡を残したまま、声を失いかけていた。
最後に言ったのは、ひとつの名前。
その瞬間、傍らの神父が小さく息をついたのを覚えている。
私は筆を走らせながら、その音を聞いていた。
蝋が垂れ、紙の端で固まる。
涙のようだ、と思ったが、それを消すわけにはいかない。
証言の余白に私情を残せば、筆は罰を受ける。
翌朝、紙束を抱え、署名を求めに牢へ向かう。
娘はうつむき、唇を閉じていた。
「ここに、おまえが語ったことがある」
そう告げると、彼女はゆっくり袖の内側を探し、
何かを指で確かめるようにしていた。
私はその仕草を、なぜか忘れられない。
小さな糸の結び目が、光の加減で見えた気がした。
彼女は署名しなかった。
私は代わりに赤い印を押し、記録を閉じた。
広場の鐘が鳴る。
人々のざわめきが遠くから届く。
私は窓の隙間から、木の台の上の小さな影を見た。
筆を握る手が震え、紙に黒いしみが広がる。
その夜、私は初めて自分の名を記した。
書の端に、誰にも見えないほど小さく。
「この記録は、神ではなく人が書いた」と。
灯を消す。
部屋は暗く、蝋の匂いだけが残る。
机の上の紙の束がわずかに揺れ、音を立てた。
まるで、誰かがそこにまだ名を呼び続けているように。
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