第42話『監視宣言』
ルキウス・マルキウス・ピリップスと セクストゥス・ユリウス・カエサルが執政官の年(紀元前91年)十一月初旬、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
――来たか。
朝食の時間に、セルウィリウスの伝令が屋敷を訪れた。礼儀正しい態度を取ってはいるが、その目には氷のような冷たい光が宿っている。夜明けと共に昨夜の騒動の報告がセルウィリウスの元に届いたのだろう。予想していたこととはいえ、胃の奥がきりきりと痛んだ。
「クリスプス殿。法務官殿がお呼びです。至急、野営地までお越しください」
「承知しました。用意しますので少々お時間をいただきたく。デモステネス、付いて来てくれ」
「時間がありませんので、手短にお願いします」
使者を控え室に送り出したあと、法務官に面会するための服装へと着替えることにする。途中だった朝食は勿体ないがお預けだな。ソフィアが心配そうに着替えを手伝ってくれた。
「ティトゥス様、危険ではないでしょうか?」
「危険だろうな。だが、逃げるわけにはいかない。ソフィアは商会でアウレリウスと一緒に待機していてくれ」
「…………わかりましたぁ。お待ちしておりますぅ」
かなり不服そうだが彼女を連れて行くわけにはいくまい。余計なトラブルが増えてしまうからな。まぁ直接手を出されることはないと踏んでいる。その点は向こうにも体面があることだし、問題ないだろう。ただ彼女のことだ、姿を消しながら付いてくるに違いない。
野営地までの道のりは短いはずなのに、まるで永遠のように感じられる。石畳を踏む軍靴の音が規則正しく響き、すれ違う兵士たちの視線が背中に突き刺さるように痛い。汗と革の匂いが鼻をつく。昨夜の件で、完全に要注意人物としてマークされているに違いない。
セルウィリウスの天幕は、他の天幕よりも一回り大きく、紫の布で装飾されている。風にはためく布が小さくぱたぱたと音を立てている。入り口では武装した親衛兵が警備に当たっており、鎧の金属が日光を反射してちらちらと光っていた。
「法務官殿、ティトゥス・アエリウス・クリスプスが参りました」
「入れ」
天幕の中は薄暗く、乳香の甘い香りが立ち込めている。絨毯の上を歩くと、足音が沈んで聞こえる。奥の席にセルウィリウスが座っている。革の軍服が軋む音が微かに聞こえた。昨夜の威厳ある法務官ではなく、軍服姿だ。今朝の彼は、明らかに不機嫌だった。
「昨夜の騒動について説明してもらおうか」
「昨夜の騒動、とは一体何のことを指しておられるのでしょうか」
「しらばっくれるな。時間が惜しい。」
「……市民同士の小競り合いでした。既に解決済みです」
「小競り合い? 武装した暴徒がサルウィウス家を襲撃し、市内で騒乱が起こったのだ。それを小競り合いと呼べるのか?」
セルウィリウスの声は低く、威圧的だった。場所も内容も全て把握済み、か。さすがだな。まぁ、できるだけ冷静に答えることにしよう。
「暴力的行為は未然に防がれました。負傷者も最小限に留まっています」
「君が仲裁したそうだな。商人の息子が、なぜ政治的騒乱に介入する?」
「アスクルム市民として、平和を維持する義務があると考えたからです」
「平和を維持する義務? それは市議会と、そして我々ローマの法務官の仕事だ。一介の商人が出る幕ではない」
セルウィリウスが冷笑しながら身を乗り出し、立ち上がった。衣服の擦れる音が妙に大きく聞こえる。
これが本丸か? 俺の政治的関与を問題視しているのか?
天幕の中の空気が重くなり、デモステネスが後ろで身構える気配を肌で感じる。
「確かにその通りかと思われます、法務官閣下。しかし、緊急事態でしたので。市民の生命が危険に晒されていましたから」
「市民の生命? 反逆者同士が殺し合うなら、ローマにとっては都合が良い。なぜそれを止めた?」
セルウィリウスが嘲笑した瞬間、理解した。
彼は意図的にアスクルム市民を分裂させようとしている。昨夜の騒動も、恐らく彼が仕組んだものだ。偽造文書も、彼の指示で作られたのだろう。
――分断統治か。現代でも使われる古典的な政治手法だが、まさかこの時代に直接体験するとは……、マキアヴェッリの『君主論』を地で行くような狡猾さだな。
「閣下。アスクルム市民は皆、ローマに忠誠を誓っています。内部分裂など起こりえません」
「それは君の意見だな。だが、現実は違う。昨夜の騒動がその証拠だ」
「……昨夜の件は、外部からの扇動によるものでした」
真っ直ぐに彼を見つめ、賭けに出た。直接的な非難はできないが、暗示することはできる。
セルウィリウスの目が険しくなった。
「外部からの扇動? 具体的には何のことだ?」
「詳細な調査が必要ですが、偽造文書が使用されていました。アスクルム市民だけでは作成不可能な、高度な技術を要する文書です」
長い沈黙が続いた。
セルウィリウスと睨み合う。そして、突然セルウィリウスが笑い出した。
「面白い少年だ。君のような者がアスクルムにいるとは知らなかった」
「光栄です」
「だが今後、政治的活動は厳に慎むことだ。ローマは、君のような『才能ある』市民を、常に見ている」
セルウィリウスの表情が再び険しくなった。それは明らかな警告だった。
「承知いたしました」深く頭を下げた。
「では、退下してよろしい。ただし、」セルウィリウスが最後に付け加える。
「今後の君の行動には、特に注意を払わせてもらう」
△▼△▼△▼△▼△
天幕を出ると、外の新鮮な空気が肺に流れ込んで、大きく息を吐いた。陽の光が眩しく、目を細める。野営地に立ち並ぶ天幕の間を、兵士たちが規則正しく行き交っている。鎧の金属音が乾いた音を立て、馬が鼻を鳴らす声が遠くから聞こえてきた。なんとか最悪の事態は避けられたが、完全に敵視されることになってしまった。
「若様、これからが本当の正念場ですね」
デモステネスが心配そうに言った。彼の額には薄っすらと汗が浮かんでいる。
「ああ。でも、やるしかない」
アスクルムの空は相変わらず高く、雲一つない青さを保っている。しかし、その下で繰り広げられる人間の営みは複雑怪奇で、解決するのが困難な課題ばかりが山積していた。
石畳の道を歩き野営地から戻る道すがら、自分の置かれた状況について深く考えていた。足音が規則正しく響き、時折すれ違う市民たちが会釈をしてくる。彼らの表情には昨夜の騒動への不安が色濃く表れていた。
完全に敵視された。これは間違いない事実だ。セルウィリウスの最後の言葉『今後の君の行動には特に注意を払わせてもらう』は、単なる警告ではなく、実質的な監視宣言だった。
――監視国家の始まりか。現代の諜報機関顔負けの情報収集能力を、古代ローマも持っているということだな。恐ろしいことに、彼らには令状も人権保護の概念もない。
しかし、同時に一つの確信を得た。昨夜の騒動は、確実にセルウィリウス側の仕組んだ罠だったはずだ。
「若様、お顔の色が優れませんが……」
デモステネスが心配そうに声をかけてくる。立ち止まって振り返ると、彼の眉間には深い皺が刻まれていた。
『大丈夫だ』と答えてはみたものの、実際には全く大丈夫ではない。胃の奥に重い石でも沈んでいるような感覚があり、こめかみもずきずきと痛み始めている。口の中が渇き、舌は張り付くような感覚がする。緊張とプレッシャーが、まるで毒のようにじわじわと体を蝕んでいた。
ソフィアが腕にそっと手を添えた。その手は温かく、微かに震えているのが分かる。
「無理をしてはいけません。今朝から何も食べていないでしょう?」
そう言われて気づく。確かに、緊張で食欲が全くなっていた。食べようとしたところで伝令が来たからな。あれ、どうしてまだ屋敷に到着していないのにソフィアがいるんだ? まぁいいか。想定範囲内だな、これも。
「屋敷に戻ったら、まず食事を取りましょう」
デモステネスが提案した。彼は歩調を緩め、俺の顔色を気にかけながらゆっくりと歩いてくれている。
「それから、今後の対策を練る必要があります」
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