影切りの旅~闇のほそ道~

マレブル

第1話 千住の妖

千住大橋を渡る舟は、春の川面をわずかに震わせながら北へ進んでいた。

岸辺の柳は淡く緑をまとい、町人や旅人の笑い声が風に乗って漂ってくる。

舟の舳先に腰かけた男は、旅支度こそ質素だが、背筋をすっと伸ばし、黒い笠の奥から町を鋭く見据えていた。

舟が岸に着くと、男はゆるやかに立ち上がり、荷と見える軽い風呂敷包みを肩にかける。そのまま千住の宿場町へと足を運んだ。

町は行き交う人で溢れている。

魚を売る声、団子を焼く香り、荷を引く馬の蹄音。

だが、その賑わいの奥底には、どこか湿った影が差している。

川沿いに住む者たちが時折、声を潜めて交わす噂が耳に届く。

─夜になると、川面から大女が現れる。

─引きずり込まれた者は二度と戻らぬ。

川女郎(かわじょろう)。古くからこの地に棲むと伝わる妖怪の名だ。

宿に着いた男は、帳場で名を記すこともなく「しばらく世話になる」とだけ告げた。

帳場の番頭は、通行手形の朱印に目を見張ったが、何も言わず帳面に「上客4名様」と記した。二階の一室。

ひとり客には不相応な広さである。

障子越しに川風が吹き込むと、薄暗い畳の間に三つの影が揃った。

霧之助、鈴、小太郎である。

三人はそれぞれ男に先だって町に潜み、溶け込み、町人たちから情報を集める役目を担っていた。

男が聞いた。「川女郎か?」

低く、しかしよく通る声が部屋に落ちた。

鈴が微笑を浮かべながら口を開く。

「耳が早うございますね。最近、川沿いで行方知れずになった者が多数おります。町人は、川女郎に連れ去られたと噂しています。水から出た大女に男が引き込まれるのを目撃した者がおります。」

霧之助が口を開く。「大黒屋金兵衛という商人が、この町の金貸しをほぼ一手に握っております。近頃、川べりで姿を消した者は大黒屋に借金を抱えた者ばかり、その者たちの金品・家財道具も一夜にして消えると噂されております。」

小太郎が身を乗り出した。「川女郎を見たと喧伝している者…大黒屋に出入りしている佐吉という小男です。」

男は目を閉じ、短く息を吐いた。「そうか…しばらく周辺を探れ。妖怪退治は本分ではないのでな。」

三人は深く頷き、闇に溶けるように姿を消した。

残された男は、そっと杖を手に取った。柄頭に目立たぬよう浮彫された葵の紋が、障子の隙間から差す夕陽を受けて微かに光る。

男はその夜、水音と女の笑い声が混じった音を宿の障子越しに聞く夢を見た。


翌朝、男は筆を取ると、紙に一行だけ記した。

― 行く春や 鳥啼き魚の 目は泪 -

男の名は松尾芭蕉。

俳句を詠みこんだ紀行を執筆するために全国を旅する俳諧師である。

表向きは全国行脚、旅装束で「俳諧師」として各地に出入りしているが、芭蕉は、徳川の「御庭番」として密命を受けて動いている。

全国各地の不審な騒ぎを調べ、必要であれば収める。

徳川家から預った手形を見せればどこへでも行ける、どの宿場町にもしばらく留まることができる。


千住の町は夕餉の支度に煙を上げ、川面は茜色に染まっていた。

霧之助は、日が沈むのに合わせ大黒屋金兵衛の屋敷へ向かった。

屋敷は町外れの高台にあり、塀は高く、門番の眼光は鋭い。

霧之助は人目のない藪の中で町人の装いを解くと、茶色の装束に身を包み、顔までを覆う。門番の視線を避け、裏手の石垣を駆け上がった。

庭先には蔵が三つ。静かに開けて中を覗くと、布をかけられた大きな荷が並んでおり、その端から金の飾り箪笥の脚が覗いている。

―行方知れずになった者たちの家財かな。

霧之助は、さらに奥を窺う。

その時、蔵の戸が開く音がして、小男が現れた。

霧の助はさっと身を翻し、大きな荷の後ろに姿を隠した。

黒はかえって目立つ。忍びは焦茶色や紺、柿渋色の装束で闇夜に溶け、人目を眩ませた。連れに「佐吉」と呼ばれた男は蔵の中の先客に全く気付かない。

背には大きな袋。袋の口からは、濡れた黒髪の束が垂れていた。

それは、水草にも見えた。

霧之助は息を潜め、佐吉をつぶさに観察した。


鈴は茶屋へ入った。帳場の女将に酒を頼むと、それとなく川女郎の噂を振る。

「夜な夜な、川から女が出るんですってねえ」

女将は眉をひそめ、声を落とした。

「この前なんか、借金で首が回らん魚売りの源助がね、川沿いで声をかけられたそうな。次の日には姿が消えて、女房と子どもは路頭に迷い…気づいたら、その家の長持ちやら何やら、大黒屋の手代が運んでたんだと」

「妖(あやかし)と金貸しが手を組んでるのかねぇ」鈴は盃を回しながら、笑った。

―大黒屋の名が出た。

すると、女将の視線が奥の座敷へ泳いだ。

そこには、見慣れぬ上客が二人、盃を交わしている。

豪商らしい着物の柄は、月と波。―あれが大黒屋か。


深夜。三人は宿の一室に戻り、それぞれの報告を述べた。

芭蕉は黙って聞き、障子越しの月影を見やった。

「…川女郎は、どうやら人の手で造られているようだな」

霧之助が頷く。「佐吉は水をたっぷりと含んだ髪の束を運んでいました。水草を絡め、人の髪に見せかけているものと思われます」

鈴が続ける。「大黒屋への借金で首が回らぬ者が川辺で消える。その者の家財は大黒屋の蔵に運ばれているらしい」

小太郎は唇を引き結んだ。「鈴が見た大黒屋の主人の相手は城の近くに屋敷を構えています。近所の者に聞いたところ町奉行の屋敷であると」


芭蕉は杖を手に取ると、すらりと抜いて白刃を三名に見せ、すぐさまカチリと鞘に納めて言った。

「…まずは、大黒屋の懐を開かせよう。忍び込めるか?」

頭を下げた三人の影が、再び闇へ溶けていく。


川面から立ちのぼる靄の向こう、葦原で小さく笑う声がした。

あれは女の声か、子どもの声か。芭蕉は目を閉じ、静かに耳を澄ませた。

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