星を継ぐ者たち
甲州街道まっしぐら
第1話 レンズの裏切り(1610年 パドヴァ)
教会の石畳は、夏の終わりでもひやりと冷たかった。
ルカは、香油と古い羊皮紙の匂いが混じり合う書庫の片隅で、師である天文学者の帰りを待っていた。
彼の師は、パドヴァ大学で教鞭をとる、あのガリレオ・ガリレイ師の数少ない理解者の一人だった。
大学の回廊では、アリストテレス哲学とプトレマイオスの宇宙観を絶対とする学者たちと、ガリレイ師の唱える新説を支持する者たちとの間で、日夜激しい論争が交わされていた。
ルカは、その熱気と緊張感の中で、師から天文学の基礎を学んでいた。
ルカの世界は、古代ギリシャ哲学と聖書が描く、完璧な秩序で満ちていた。
地球は宇宙の中心で静止し、その周りを太陽も月も、そして星々を縫い付けた水晶の天球が、神の御心のままに回転している。
天上の世界はエーテルで作られた永遠不変の領域であり、我々の住む地上界の穢れとは無縁のはずだった。
それが、ルカが学び、信じてきた世界のすべてであり、彼の心の安寧の源でもあった。
その日の午後、事件は起きた。
師の研究室に、大学の重鎮である司祭が訪れたのだ。
ルカは書物の整理をしながら、固唾をのんで彼らの会話に聞き耳を立てた。
「教授、あなたの最近の講義内容は、少々度を越しているとの声が届いておりますぞ」
司祭の声は穏やかだが、鋭い棘が隠されていた。
「ガリレイ師の異端な説を、まるで真実であるかのように学生たちに説いているとか。天動説は神が定められた宇宙の秩序。それを疑うことは、神そのものを疑うことに他なりません」
「司祭様、私はただ、観測された事実を教えているに過ぎません」
師は冷静に答えた。
「もし、神が我々に理性と観察の眼をお与えになったのなら、それを用いて神の創られた世界を理解しようと努めることこそ、真の信仰ではないでしょうか」
「口が過ぎますぞ、教授!」
司祭は鼻で笑い、さらに言葉を重ねる。
「神の御業は人間の矮小な理性で測れるものではない。あなたのその『事実』とやらが、聖書の教えと異なるのであれば、それはあなたの眼か、あるいはその奇妙な筒が偽りを見せているのです」
祭司が憤然と部屋を辞した後、師は深いため息をつき、窓の外を見つめていた。
その夜、師はルカを屋上の観測台へと連れ出した。
「ルカ、来たか」
扉が軋み、師が姿を現す。
その顔は午後の疲労とは打って変わり、興奮で紅潮し、目は少年のように輝いていた。
手には、真鍮の筒――師が「望遠鏡」と呼ぶ、あの奇妙な道具が握られている。
ガリレイ師がオランダの玩具を改良して作り上げたというその筒は、遠くのものを近くに見せるだけでなく、世界の真理をも暴き出す力を持っていると、師は熱っぽく語っていた。
「師匠、お待ちしておりました。何か新しい発見が?」
「発見どころの話ではない。革命だ。いや、神への冒涜かもしれん……」
師はそう呟くと、ルカを手招きした。
屋上の観測台へ登ると、夜の帳が下りた空に、銀色の月が冴え冴えと浮かんでいた。
「我々が今まで見てきた月は、詩人や神学者が語る月だ。だが、今からお前が見るのは、神が創造されたままの、ありのままの月だ」
促されるまま、ルカは恐る恐る望遠鏡の接眼レンズに目を当てた。
最初はぼやけていた視界が、師が筒を調整すると、くっきりと像を結ぶ。
「……あ……」
息が、止まった。
そこに浮かんでいたのは、詩人たちが謳い、神学者たちが語ってきた、滑らかで完璧な天体ではなかった。
表面は無数のクレーターで穴だらけになり、地球の山々と同じような険しい影が長く伸びている。
それは、神聖で汚れなき天上界の住人ではなく、我々の地上界と同じ、傷つき、変化する「世界」の姿だった。
完璧な球体ではなく、岩と砂でできた、ただの天体。
そのあまりに無機質な事実に、ルカは神に見捨てられたかのような孤独感さえ覚えた。
「嘘だ……」
ルカは思わず呟いた。
「天上は、完璧なはず……」
「私もそう信じていた」
師の声は、震えていた。
「だが、我々の眼は、そうではないと告げている。ガリレオ師は、木星の周りにも月が回っていることを発見された。すべてのものが地球を中心に回っているわけではないのだ」
「我々が信じてきた宇宙は、幻だったのかもしれない」
「我々は、宇宙の中心にいる特別な存在ではなく、広大な宇宙に浮かぶ、無数の星々の一つに過ぎないのかもしれん」
その夜を境に、ルカの世界は二つに引き裂かれた。
一つは、教会が説き、人々が安寧のうちに暮らす、秩序と目的に満たした閉じた宇宙。
もう一つは、レンズの先で冷たく輝く、無慈悲なまでに広大で、地球が中心ですらない、開かれた宇宙。
師はその後、ガリレオ師の地動説を擁護したことで教会から睨まれ、パドヴァを追われることになった。
旅立ちの朝、師はルカの肩に手を置いた。
「ルカ、お前の葛藤はよく分かる。これは単なる天文学の論争ではないのだ」
「地球が宇宙の中心であるという教えは、神が定めた人間の特別な地位の証であり、教会の権威そのものの礎なのだ」
「その礎が揺らげば、社会の秩序も、人々の心の安寧も、すべてが崩れ去ると彼らは恐れている」
「真実よりも、秩序という既得権益を守ることこそが彼らの正義なのだよ」
師と共に真実の道を歩むか、故郷に残り家族との穏やかな暮らしを守るか。
ルカは幾晩も眠れずに悩んだ。
そして、生まれたばかりの息子の寝顔を見たとき、彼の心は決まった。
彼は師に別れを告げ、時計の歯車という、小さな閉じた宇宙の中で真実を探求する道を選んだ。
しかし、彼は決して忘れなかった。
あの夜、レンズの向こうに見た、裏切りのように美しく、そして残酷な月の姿を。
彼は、夜ごと屋根裏に登り、自作のささやかな望遠鏡で星を眺めた。
そして、生まれてくる子や孫に、決して教会では語られない、もう一つの宇宙の物語を語り聞かせた。
「いいかい。世界は、書物の中にだけあるんじゃない」
「自分の眼で見て、自分の頭で考えるんだ」
「たとえそれが、今まで信じてきたすべてを覆すような、恐ろしい真実だったとしても」
その言葉は、遺言のように、ルカの子孫たちの心に深く刻み込まれた。
それは、権威に寄りかかるのではなく、自らの観測と理性を信じるという、近代科学の精神そのものだった。
そして、その精神は「星野」の一族の血脈に受け継がれ、数世紀後、遥か遠い国の、新たな天文学の扉を開くことになる一人の子孫へと繋がっていく。
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