第3話 海神の接触




 カイエルに初めて会った日の次の日、通常通り魂の回収業務を終えたアシュレイザルは約束通り夜の闇の中、カイエルに会うためアウロラの村へと向かっていた。


 月明かりが海面に銀色の道を敷き、潮風が彼の黒い外套を揺らす。

 死神界の静寂とは異なる、波の音と潮の香りがしている。


 アシュレイザルは自らの内に湧き上がる感情に戸惑っていた。

 海神の加護を持つ人間に干渉するという禁忌を犯してまで、なぜ自分は再びこの場所へ向かっているのか。

 それは彼の理性では説明できない、抗いがたい衝動だった。


 こんな感情を持つ自分にやるせなさも感じていた。

 感情を完璧に排除しなければ完璧な死神にはなれない。

 こんな衝動を持つ自分が情けなく、険しい表情をした。


 カイエルのいる方向は分かった。

 海神の加護のある生命力と、死神の呪印の混じり合う不自然な気配がカイエルだ。

 認知してからでなければその不自然な気配に気づかなかった。


 何故、昨日は死の気配が強くあったのだろうか。


 アシュレイザルはアウロラの村から少し離れた海沿いにカイエルを発見した。

 しかし、その場所にたどり着いた彼は身を隠してその場に留まった。


 ──誰かがいる


 明るい月明かりの下、カイエルがもう一人の人物と話しているのが見えた。

 その人物は、海を思わせるターコイズブルーの肩にかかる程度の長髪。

 その髪はまるで水のように揺れ動き、見る角度によって色が変化する。


 鋭いエメラルドグリーンの瞳。

 瞳の奥には深海の底を思わせる冷たさがある。


 白い肌には、光を反射する真珠のような鱗が、首元や腕、頬の一部に細かく浮かび上がっている。


 引き締まった体つき、背中には透明なヒレが優雅な流れを模したように薄く広がっている。

 潮の流れを模したような装飾を施された白い法衣を身につけ、その姿はどこか優雅で威圧感と気品を併せ持っている。。


 アシュレイザルは彼が海神の使いであると瞬時に悟った。


 死神である自分がカイエルに接触しているのを見られると不都合があると考え、岩陰に身を潜め二人の会話に耳を澄ませた。


「……変わったことなんてないよ」


 カイエルの声はどこか諦めたような響きを持っていた。


「そうか。しかし、いつまでもフラフラしているんじゃない。早く世継ぎを作れ」


 海神の使いは冷たい声でそう言った。


「もうその話はいいって」


 カイエルは苛立ちを隠さずに答える。

 彼の表情は、アシュレイザルと話すときの無邪気なものとは全く違っていた。


「昨日も無茶なことをして死のうとしたらしいな。死にたいなら世継ぎを作れ。お前の加護を子に分け与えれば、お前は死ぬことができる」


 海神の使いの言葉にアシュレイザルの心臓が跳ねる。

 カイエルが死を望んでいることは知っていたが、それが「死神の干渉」だけでなく「自ら死を求める」ほど切実なものだとは知らなかった。


 アシュレイザルは言い知れぬ不安と、そして怒りの感情が湧き上がってくる。

 それを必死に抑え、平静を装いながら会話の続きに耳を澄ます。


「子供なんて作りたくないよ。僕の不死が子供に受け継がれるんでしょ? 何の解決にもならないじゃん」


 カイエルの声は震えていた。

 その言葉の裏には、自分の命のために無垢な子供を犠牲にすることへの強い拒絶が感じられた。


「海神ルヴァル様の加護、なんの不満があるのか。不老不死は他の人間が喉から手が出るほど欲するものなのに」


 海神の使いはカイエルの苦悩を理解しようとせず、ただ使命を押し付ける。

 その傲慢さにアシュレイザルは静かに拳を握りしめた。


「はぁ……毎回同じ話になって堂々巡り。もういいよ。海神って人間の価値観分からないよね。人間も海神の価値観分からないよ。それじゃ、僕はもう行くから」


 カイエルはそう言って、海神の使いに背を向けた。

 海神の使いは何も言わず、ただ冷たい視線を投げかけるだけで、やがて海の中へと消えていった。


 アシュレイザルは海神の使いが去ったことを確認すると、ゆっくりとカイエルの元へと近づいた。


 カイエルは一人になった安堵からか、深い溜め息をついていた。

 そのとき、ふと視線を空へ向けた彼の瞳が夜の闇に佇むアシュレイザルを捉えた。


 カイエルは人差し指を口に当ててから陸の内側の方を指さし、その方向へと歩き始めた。


 アシュレイザルはカイエルの後を追って森の中へ入った。

 木々の生い茂る場所は海風も届かず、海神の使いからも身を隠すには最適の場所だった。

 海神らは海から陸にはあがらないからだ。


 静寂の中でアシュレイザルが口を開いた。


「海神と会っているのか」


 問いかけられたカイエルは、隠すことなく淡々と答える。


「そうだよ。定期的に僕のところにくる。いい迷惑だよ」


 アシュレイザルはカイエルをじっと見つめ、核心に迫る質問を投げかけた。


「定期的に海神と接触しているのなら、その首の呪印は何故気づかれない?」


 カイエルはアシュレイザルの鋭い質問に、少しだけ笑みを浮かべた。


「僕が隠してるからね。僕、髪の毛長いし襟のある服なら見えない。それで、僕のところに来ている死神が誰なのか分かったの?」

「いや……昨日の今日では流石に分からなかった。お前にもう少しその死神の特徴を聞こうと思ってな」


 アシュレイザルの真摯な言葉とは裏腹に、カイエルは興味なさそうに首を振った。


「んー……あんまり印象に残ってないかな。大した話はしてないよ。“内密にしろ”とか“またくる”とか、あんまり自分の事情をペラペラ喋る死神はいないかな」


 なんのヒントにもならないカイエルの言葉に、アシュレイザルは呆れてしまった。

 自分の中に、この無力感と苛立ちが湧き上がることに彼は再び戸惑う。

 カイエルを前にするといつも通り感情を殺すことが困難になる。


 アシュレイザルが頭を抱えていると、カイエルはふざけて彼に抱き着いて首に軽く噛みついた。


「!?」


 アシュレイザルの全身に電撃が走る。

 反射的に彼はカイエルを突き飛ばした。


「何をする!?」


 アシュレイザルの声には怒りだけでなく、戸惑いと恐怖が滲んでいた。

 全く理解できない行動であり、感情の波と混乱で頭の中がぐちゃぐちゃになる。


 突き飛ばされて地面に座り込んだカイエルは驚く様子もなく、ただクスクスと笑うだけだった。


「僕の生命力を死神が吸うみたいに、死神の力を僕が吸えないかな〜って思って」


 カイエルは悪びれる様子もなく、そう言って立ち上がった。


「ふざけるな!」


 アシュレイザルの怒りが頂点に達した。

 しかし、その怒りはカイエルを恐れさせるどころか彼をさらに面白がらせるだけだった。


「怒ってるんだ? 感情のある死神って珍しいって聞いたけど」


 カイエルの言葉は、アシュレイザルの心に突き刺さった。

 そうだ、感情があるのは完璧ではない証拠だ。

 彼は怒りを鎮めようと努めた。

 感情を制御し、再び冷徹な死神であろうとした。


「……死神において感情があるのは疾患でしかない」


 そう言い放ったアシュレイザルの表情は、苦痛に歪んでいた。


「僕はアシュみたいな方がいいと思うけどな」


 カイエルはアシュレイザルの苦悩を理解しながらも、彼の純粋な感情を愛おしく思っていた。


 カイエルは舌をペロリと出して唇を舐めると、アシュレイザルの心をさらに揺さぶった。

 アシュレイザルの理性を試すように、彼から生命力を奪いたいという耐えがたい衝動に駆られる。

 しかし、それでもアシュレイザルはカイエルに手を出さなかった。


 カイエルはアシュレイザルの理性を讃えるように微笑む。


「我慢できるんだ? 僕は全然いいんだけどなぁ?」


 カイエルはそう言って着ているシャツをゆっくりはだけさせて白い肌を露わにした。

 呪印の跡が刻まれた首筋と胸元が、月明かりの下で艶かしく輝く。


 アシュレイザルはその光景に目を奪われた。

 彼の心は理性を保とうとする力と、本能的に生命力を欲する力の間で激しく揺れ動いていた。


「感情があることと理性がないことは直結しない。私はお前に手を出さない」


 アシュレイザルは震える声でそう言った。

 彼の言葉は、自分自身に言い聞かせているようでもあった。


「僕は吸われてるとき結構気持ちいいけどな……?」


 カイエルはアシュレイザルが衝動と理性の間で揺れていることを面白がるように、さらに彼を挑発する。


「ふざけるなと言っただろう。私をからかうな」


 アシュレイザルの声にはもう怒りはなかった。

 ただ、困惑と切実な願いが込められていた。


「真面目だね、アシュは」


 カイエルは事の重大さをあまり分かっていないように、ただ楽しそうに笑うだけだった。

 アシュレイザルは、この純粋な悪意のない無邪気さと彼を蝕む悲劇の板挟みになり、再び頭を抱えた。



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