第34話 英語でのクロージング

秋の午後、品川の高層ビルの会議室。

クライアントの購買担当と部長が向かいに座り、オンラインでクライアントの北米リードと繋がっていた。


提案はすでに受け入れられている。

だが「最後のひと押し」、つまり契約にサインをしてもらうクロージングこそ、営業にとって最大の難関だった。

決裁権は北米リードにある。


ミヘの心臓は早鐘を打っていた。

「クロージングは準備八割」とスーパーバイザーから繰り返し聞かされていた。

だが、その八割が自分に足りているのかどうか、分からなかった。



沈黙が流れる。

北米リードが「結論を先送りにする。」と言いかけた瞬間、横に座るスーパーバイザーが小さく頷いた。

――行け。


それは、これまで数え切れないほど彼に鍛えられてきた「空気の合図」だった。



ミヘは深呼吸し、自然に口を開いた。


「契約を確定しましょう。」


その一言に、会議室の空気がわずかに変わった。

彼女の発音はネイティブとほとんど遜色がない。だが、言葉の選び方はまだ拙い。

それでも――真剣さと熱量がこもっていた。




部長が目を細めて彼女を見た。

「若いのに、いい度胸してるな」


購買担当は少し笑みを浮かべ、資料を閉じた。

「OK, let’s go ahead.」


ペン先が契約書に走る。

その瞬間、ミヘは胸の奥で「音」が弾けるのを感じた。

まるで練習してきたフレーズが自分を背中から押したようだった。



初めての勝利


会議室を出ると、スーパーバイザーが片手を上げた。

「よくやったな。普通なら黙り込む」


ミヘは頬を赤くしながら首を振った。

「……たまたまです」


「いや、たまたまじゃない。毎日メモして、声に出して、積み上げてきただろ。それが出ただけだ」


その言葉に、ミヘの胸に温かいものが広がった。



後日、社内のミーティングでスーパーバイザーは言った。

「営業の勝負は最後の一分にある。準備を積んで積んで、最後に“勇気を持って口にできるか”がすべてだ。ミヘはそれをやった」


ミヘはまだ実感がなかった。

ただ一つ、確かに感じていたのは――「あの瞬間、自分は営業として生きていた」ということだった。そしてそれが英語でも出来た瞬間だった。

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