暮坂外記事件帖
七川久(ななかわひさし)
第一話 暗殺剣 一
一
月が出ていたが、厚い雲に覆われ濃い闇夜となる。
「五月闇か……」
暮坂外記は深川の知り合いの店で呑み、ほろ酔い加減で八丁堀岡崎町にある組屋敷の自宅へと向かっていた。あと十間ほどさきに永代橋が見える。
人っ子ひとりいない夜の通りの先に、人影が動くのが見えた。外記は立ち止まり、闇夜を
――誰かいる……
暮六つの鐘がなり、まっとうな町民は家や長屋に戻る。こんな時間に外出するのは、夜回りか、飲み屋か岡場所にでも行く奴だ。
精神を集中すると、背後からも人の気配が感じた。ちらりと背後へ視線をおくると、辻の塀の影あたりから気配がするが、人影は見えない。
――何者だ……物盗りか辻斬りか、いや違うな。
外記は小銀杏の髷に、格子の小袖を着流し、黒の紋付羽織の裾を帯の中に内に巻き上げて挟む巻羽織、雪駄を履き、刀を水平に帯に差すカンヌキ差しにしていた。一目で同心と分かる姿だった。
八丁堀同心を狙う物盗りや辻斬りなどなど皆無だ。つまり、彼を同心と知ったうえで狙っているのだ。
――おれに意趣返しをしようって
町方同心として市中の
今も先月に四谷の両替商・丸橋屋を襲った押し込み強盗の件を探索中だが、いまだに下手人の手掛かりがつかめていない。
こちらが気付いたからか、前後に潜む気配は殺気をこめてきた。ひりひりと嫌な気配でうなじの毛が逆立つ。ごくりとつばを呑みこむ。
「前門の虎、後門の狼ってとこかい……」
右近はふたたび提灯を前にかざして歩き出した。何知らぬ顔をして、刀の鯉口を切る。ふたり相手は面倒だ、いかにこの危機を脱するか考えた。
稲荷社の茂みから人影が刀を抜いて駆け寄ってきた。右近は立ち止まり、敵の刀と手許を凝らして見つめた
「おれを八丁堀の暮坂と知ったうえでの狼藉かい!?」
黒い影法師は無言であった。ゆっくりと歩をよせてきて、相手が覆面をしていたことに気が付いた。覆面の間から底光りする両眼が冷たい視線をおくってくる。
覆面の男は土埃をあげて突進してきた。刺客は左八相から外記に斬りかかった。
外記は背後の刺客が襲ってくる前に前方の敵に向かって走った。覆面侍の太刀筋を見切り、駆け抜けざまに、すばやく直心影流の抜き打ちをおくった。
固く鈍い音がして、刺客の刀を握る右腕が闇夜に飛んだ。黒影の刺客は肘から先の切断面から血をほとばしらせ、身体の釣り合いを崩し、ドウと倒れた。
外記が振り返ると、もう一人の刺客も覆面をしているのが見えた。最初の刺客が腕を切られて呻いているのを見て、動揺して立ち止まっていた。
「おまえさん達はいったい、何者だい?」
外記はもう一人の刺客を
覆面侍は迷っているようだったが、無言のまま刀を振り上げ、切っ先を暮坂に向けた。猫背となり、怯えたように剣尖を突きつけている。その先端がふるえているのが見てとれた。
先に襲ってきた覆面侍の方が太刀の腕は上だったのであろう。武芸の差は歴然であった。
「だまってねえで、何とか言わねえかい!!」
外記が怒鳴ると、刺客は「ひっ」と声をもらし、反転して逃げていった。
「やれやれ、仲間を置いて行くとはな……」
片腕を斬られた男は地べたで苦しげに呻いている。その覆面をとりさると、下に
「知らねえ顔だな……」
そこへ提灯をもった火の見番の男が通りかかった。
「そこで何をなさっておいでで?」
火の見番の老人が怯えた様子で問い質した。
「おれは北町奉行所の暮坂外記だ」
「定廻りの暮坂さま!!」
火の見番の老人は暮坂を見知っていた。
「こいつは狼藉者だ。自身番から人手を呼んでくれ。それから医者もな」
「は、はい!」
火の見番は自身番へ駆け戻っていった。
暮坂外記はこの浪人から襲撃した理由を吐かせるつもりだった。
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