第15話 準備はできたけれど。

 エリュアの上流階級の人間は、昼近くに寝室から出てくると、入浴室で飲み物や軽食を取りながら午後をゆっくりと過ごす。

 その後、衣装室で着付けをし、稽古事、付き合いのための茶会やサロン、舞踏会、宴などに出かけていく。

 質実を美徳とし、高位の貴族でさえ朝早く起き体を鍛え、狩りや乗馬、農作物や木々の生育の観察など実用的なことにのみに時間を費やすルグヴィアとは、価値観も文化も真逆と言っていい。


 きっとミカは。

 トビィは脳裏に浮かぶ美しく華やかに装ったミカの姿に見とれながら思う。

 いつもトビィが見送る時のような、異国の女王のような装いで出てくるだろう。

 今日一日、付き添うなら側付きとしてふさわしい姿をしなければいけない。

 トビィはともすれば気後れする気持ちを励ますために、そう自分に言い聞かせる。


 たっぷりと汗を出した肌を泡で磨かれたあと、冷たい水につかるように言われる。水の冷たさで肌をひきしめ、温かい蒸気で体を再び温めて入浴室から出る。侍女たちはトビィの肌から水滴をぬぐうと、花の香りをつけたパフで丹念にはたいていく。

 髪は丁寧にふいて乾かされ、光沢が出るまで櫛ですく。最後に香油を塗り込むと、見違えるように艶やかになった。

 

(お風呂に入るだけで半刻以上もかかるなんて)


 ようやく服を着せられる段になった時には、トビィは精も根も尽き果てぐったりしていた。

 エリュアの習慣からすれば、入浴を半刻で終えるのはかなり短いほうだ。

 そう言われたら、目を回していただろう。


 衣装室にはサルディナが控えており、数着の服が壁にかけられていた。

 淡い青の水の流れを模したようにひだが細かく何層にも重なったもの、菫色の細身の小袖に泡のような白い重ねを合わせたもの、腰を絞り膨らませた下の裾に星のように細かな銀の珠を散らした薄紅色のもの。

 形も色合いも様々な華やかな衣裳に、トビィはしばし見とれる。


「夜会ではなく、昼に街を回られるのでしたら、下の深紅の色合いを重ねで少しぼかしたほうが品が良いでしょうね。動きやすいように、脇に少し切れ込みが入ったものを選びました。

 髪は上のほうで束ねて肩に垂らして動きを出そうと思います。しっかりまとめるよりも、トビィ様の活発さが映えますわ」


 サルディナは語りかけながら、さりげなくトビィの普段の生活や好み、どんな気性かを細かく引き出していく。そうして得た情報によって、化粧や髪形や装飾品を少しずつ変えていった。

 鏡に映る自分の姿が彩を加えられ徐々に変わっていく様を、トビィはただ呆然として見守る。

 銃剣士として日々勤めているトビィは、貴族の令嬢の生活の一部とも言えるドレスや夜会や恋愛遊戯などとはとんと無縁だった。

 本格的に女性らしい装いをするのは、生まれて初めてだ。


「いかがですか?」


 着付けされたあと、全身を映し出された鏡を見てトビィは声を失った。


 サルディナがトビィのために選んだのは、体の線がスッキリと出る深紅の濃い小袖とごく薄い透き通った光沢の淡紅色の長衣だった。長衣はドレスのように足首まで届くものだが腰より下が割れるようになっているため、動くたびに深紅の小袖が覗く。


「腰帯は青にして良かったわ。トビィ様のような色合いの肌のかたですと、青と深紅のような思いきった強い組み合わせのほうがお姿がいっそう映えますわね。靴も同じ青のものをご用意いたしました。少し踵が高いですが、このほうが長衣の裾の動きが出て動きの闊達さが出ます」


 トビィは鏡を見ながら、おそるおそる体を動かす。

 赤い小粒の宝石をちりばめた髪飾りによって束ねられた髪が、そのたびに揺れた。


「とてもお似合いですわ」


 自分の目が信じられない。

 そう言いたそうに鏡の中を見つめるトビィに、サルディナは微笑みかける。

 入口の扉からノックの音が響いた。


「サルディナ、ミカ様のお仕度が整った。そちらはどうだ?」

「こちらもお支度が整いました。ただいまお連れします」


 扉の外からの支配人の言葉に答えると、サルディナはトビィの傍らに立ち、扉のほうへ導く。


「ミカ様がお待ちです。どうぞ、こちらへ」


 躊躇うように足を止めたトビィに、サルディナは笑顔を向ける。


「大丈夫ですよ。とてもお綺麗ですから。早く見せて差し上げて下さい」

「で、でも……」


 トビィは口ごもる。


(ミカに比べたら……)


 着付け師としてのサルディナの腕前は素晴らしい。信じられないほど、美しくしてもらった。

 だが脳裏に焼きついているミカの横に並んでも恥ずかしくないほどとは、とても思えない。

 こうして装いを整えると、余計にミカの美貌との差が際立つように思えてしまう。

 

 街道を荒らす無法者との戦いでも、軍団の模擬試合でも、剣士同士の揉め事でもトビィは臆したことはない。

 だから、自分を臆病な人間だと思ったことは一度もなかった。


 それなのに……。

 今はこの場から逃げ出したい。

 ミカの姿を見て、「自分が着飾るなどというのは滑稽こっけいだった」と感じることが怖い。

 そう思って、足がすくんでいる。


 立ち止まって動けずにいるトビィの手を、サルディナは無理に引こうとはしなかった。

 側に立ち、俯いているトビィの姿を見つめる。

「トビィ様」とサルディナが言いかけた瞬間、扉の外から緊張で上擦った声が聞こえた。


「サルディナ、入るぞ」


 横柄な風を装っているが、声には常になく固い響きがあった。


「はい、ミカ様。お仕度は整っております」

「いいか、入るからな」


 ミカはサルディナではなく別の誰かに言うように念を押す。

 わざとらしい咳払いが何度か響いたあと、ゆっくり扉を開いた。

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