メモリー・ダイバー[サイコホラー x ミステリー]
伝福 翠人
1 琥珀色の澱
第1章 琥珀色の澱
グラスの中の氷が、カラン、と寂しい音を立てた。
安物のウイスキーが、神経の末端にじんと染み渡る。
雑居ビルの四階にある俺の事務所は、いつからか消毒液と埃の匂いが混じり合うようになっていた。
黒瀬探偵事務所。
看板だけは立派だが、その実態は過去から逃げ続ける男の、ただのねぐらだ。
窓の外では、新宿のネオンがどしゃぶりの雨のように降り注いでいる。
あの光の一つ一つに、それぞれの人生が瞬いているのだろう。
だが、今の俺にとって、それはただの無機質な光の集合体に過ぎない。
俺は、他人の人生に深く関わりすぎた。
その代償として、自分の人生の色を失った。
ドアをノックする音が、思考の澱を乱した。
こんな夜更けに訪れる客など、ろくなものではない。
無視を決め込んでいると、遠慮がちに、しかし芯の通った声が聞こえた。
「先輩。私です、佐倉です」
その声の主を、忘れるはずもなかった。
重い腰を上げ、鍵を開ける。
そこに立っていたのは、警視庁捜査一課の佐倉詩織。
きつく結んだ髪、雨に濡れたトレンチコート、そして、昔と少しも変わらない真っ直ぐな瞳。
その全てが、淀んだこの部屋には不似合いだった。
「…何の用だ、佐倉。うちはもう、警察御用達の店じゃないぞ」
「お忙しいところ、すみません。でも、先輩の力が必要なんです」
佐倉は、俺が淹れたインスタントコーヒーには目もくれず、本題を切り出した。
彼女の口から語られたのは、巷を騒がす連続怪死事件。
通称「影法師」。
被害者はこの一月で三人。年齢も職業もバラバラ。
共通点はただ一つ、全員が強固に施錠された自室で、極度の恐怖に顔を歪ませたまま心臓麻痺で死んでいたこと。
争った形跡も、毒物の反応も、侵入の痕跡も一切ない。
完全な密室で、被害者はただ、見えない何かに怯えながら絶命していた。
「まるで、幽霊に殺されたみたいでしょう?」
佐倉は自嘲気味に笑う。
「もちろん、上はそんなオカルト信じちゃいませんが…捜査は完全に手詰まりです」
「俺にどうしろと?」
「先輩は昔、よく仰ってましたよね。『事実は小説より奇なり、だが真実はいつも一つだ』って」
その言葉が、胸の奥で錆びついていた何かに突き刺さる。
そんなことを言っていた時期も、確かにあった。真実を信じ、それを追い求めることに全てを捧げていた、愚かで青臭い自分が。
「昔の話だ。今の俺は、真実なんて安物のウイスキーより価値がないと思ってる」
「それでも、です」
佐倉は諦めなかった。
彼女はカバンから、ビニール袋に包まれた一つの腕時計を取り出した。最新のデジタルウォッチ。三人目の被害者の遺品だという。
「お願いします、先輩。一度だけでいいんです。これが、何を見たのか…」
俺は腕時計と佐倉の顔を交互に見た。眉をひそめる。
「おい佐倉、正気か。重要証拠を勝手に持ち出すなんて、お前、クビになりたいのか」
「…これしか、方法がないんです」
彼女の声は震えていた。
その必死な表情に、規則や建前では越えられない壁を前にした、かつての自分の姿が重なって見えた。
やめろ、と声にならない声が叫ぶ。
それに触れてはいけない。触れれば、またあの地獄が始まる。
「…最後だぞ」
吐き捨てるように言って、俺は手を伸ばした。
指先が冷たいビニール袋に触れる。
その瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。
アスファルトを叩く、冷たい雨の匂い。妹が死んだ、あの日の匂いだ。
幻覚だと頭では分かっているのに、嗅覚が過去をこじ開ける。
腕時計から流れ込んでくるのは、被害者の記憶だけではなかった。
心臓が早鐘を打ち、口の中に鉄の味が広がる。
暗闇の向こうで、何かが蠢く気配。
それは視覚情報ではない。存在しないはずの何かに、心臓を直接掴まれるような、耐え難い圧迫感。
耳鳴りの奥で、低く、意味をなさない囁き声が聞こえる。
やめろ、来るな、来るな…!
俺は喘ぎながら手を離し、椅子に深く沈み込んだ。
全身が冷たい汗でびっしょりと濡れている。佐倉が心配そうに俺の顔を覗き込む。
「…引き受ける」
絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。
平穏を望んでいたはずなのに、俺の奥底で眠っていた何かが、また目を覚ましてしまった。
この事件は、俺を過去という名の亡霊に引きずり込む…そんな予感がした。
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