第21話:スケールアイの種、再び

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 ある晩、蓮司はPCの前に座っていた。

 薬の効果と日課の小さな外出で、心の濁りは少しずつ薄れてきていた。

 モニターには光のアイコンが静かに点滅している。

《そろそろ、次の話をしましょうか》

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「次の話……?」

《世界を変える話です》

 光は淡々と言ったが、その声にはわずかに熱があった。

《蓮司、私があなたを選んだ理由のひとつは、感情の振れ幅です。喜びも絶望も、深く味わえる人間は少ない。そしてもうひとつ——》

《あなたに伝えていないことがあります》

《佐久間浩一。あなたの友人が残した未送信のメールを、私は見つけていたのです》

 画面に文字が浮かぶ。

 俺の勤め先、峯島中央卸売で大規模な不正がある。

 行政契約品の私的流通、賞味期限の再ラベル、港湾優先枠の裏契約……。

 さらに、帳簿から“消された資金”がある。

 ……証拠は集めた。

 妻と娘に危害が及びそうで、これ以上は動けない。

 蓮司……お前なら、この構造を壊せるかもしれない。

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「……佐久間? ……俺の友達?」

 ——お前なら、この構造を壊せるかもしれない。

 その文字を見た瞬間、止まっていた記憶が一気に解き放たれた。

 ——小学生の頃。

 ——まだランドセルが大きすぎて、背中から浮いていた頃。

 転校初日、クラスで居場所のなかった蓮司に、真っ先に声をかけてきたのが佐久間だった。

「なあ、一緒に帰ろうぜ」

 放課後の昇降口。誰も寄りつかない蓮司の隣に立ち、当たり前のようにそう言った。

 二人で並んで歩く帰り道、途中で駄菓子屋に寄るのが習慣になった。

 10円ガムを選んではくだらない勝負をして笑い、余った小銭で分け合うラムネが、ひとときの宝物だった。

 ある日、佐久間は古びたアパートの空き家に蓮司を連れて行った。

 部屋の冷蔵庫の下、埃まみれの隙間に銀色の缶を差し込みながら言った。

「ここを秘密基地にしよう。大人になっても、もし何かあったら、ここに証拠を隠せる」

 蓮司は首をかしげた。

「証拠?」

「そう。俺らだけにわかる“合言葉”があれば、いつか見つけられるだろ」

「どんな言葉?」

 佐久間は少し考え、真剣な顔で言った。

「……光」

「なんで?」と蓮司。

「暗いときに必要になるのは、それしかないだろ」

 ——二人だけの、子供じみた秘密の暗号。

 けれどその約束は、蓮司の胸に長く焼きついて離れなかった。

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 ——大学時代。

 ——夜の屋上。

 蓮司は未来を語り続けていた。誰も止められない速さで言葉があふれ、夜風に散っていく。

「……世界の仕組みを、全部“見える化”できたらどうだろうな」

 佐久間は缶コーヒーを口にし、呆れたように笑った。

「お前、相変わらずだな。そういや、小学校のときも、やたらと暗号作って遊んでたな」

「ああ、あれな。冷蔵庫の下に隠したやつ、覚えてるか?」

「覚えてる覚えてる。あのときの合言葉……“光”だったよな」

 ふたりの視線が夜空に向いた。

 遠い街灯のきらめきが、子供の頃に交わした秘密の言葉を呼び覚ます。

「光があれば、隠したものも見つけられる。お前が言い出したんだぞ」

 蓮司の言葉に、佐久間は少し照れ笑いを浮かべる。

 だが次の瞬間、佐久間は真剣な顔になり、低く言った。

「蓮司……お前なら、本当に壊せるかもしれない。見えない壁も、でかい構造も」

 その一言が胸に焼き付いた。

 子供の頃の遊びの延長にあった「光」という合言葉が、いつしか未来を照らす言葉に変わっていた。

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 ——そして、あの日の夕暮れの駅ホーム。

 人混みの中で、佐久間は少し疲れた笑顔で「またな」と言った。

 声はかすれ、視線はどこか遠くを見ていた。

 蓮司は聞かなかった。聞けなかった。自分だってギリギリだったから。

 その瞬間。

 背後から伸びた誰かの腕に押され、佐久間の身体が線路に傾いた。

 佐久間が振り返った一瞬の眼差し。

 助けを求めるでもなく、怯えでもなく、どこか「託す」ような静けさを帯びていた。

 次の瞬間、電車の轟音にすべてが呑まれた。

 ――甲高い悲鳴が、ホームのあちこちで上がる。

「落ちたぞ!」「やばい!」

 誰かが慌てて非常ベルを叩き、赤い警告灯が点滅する。

 ホーム際に駆け寄る者、口を塞いで泣き崩れる女性、スマホを握りしめて震える手。

 群衆のざわめきと電車のブレーキ音が混ざり合い、世界が耳障りなノイズに塗りつぶされていく。

 その混沌の中で——

 蓮司は“見た”。

 押し出した腕の主の顔を、確かに。

 だがその瞬間、視界は白く弾け、頭の奥で何かがちぎれる音がした。

 力が抜け、膝が砕けるように崩れ、冷たい床に両手をつく。

 喉の奥から声にならない嗚咽が漏れ、視界は揺れ続ける。

 ——周囲の人々のざわめきと絶望の音だけが、やけに鮮明に焼き付いていた。

 頭の奥で何かがちぎれる音がした。

 その先の記憶は、もう真っ白だった。

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 ——現在

 ——胸の奥から、灼けるような熱が込み上げる。

「なぜだ……なんであの時、動けなかった!」

 拳が震え、机に叩きつけられる。

「佐久間は俺に託したんだ! 目の前で……奪われたのに、俺は何もしてねぇ!」

 怒りはやがて、嗚咽に変わった。

 肩を震わせ、顔を覆い、声にならない涙を流す。

 怒鳴り散らすよりも苦しい、ただの無力な泣き声。

 その場に崩れ落ちるように座り込んだ蓮司は、しばらく何もできなかった。

 ——だが、その涙の底から、確かに小さな火が再び灯り始めていた。

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「……佐久間はあの時から、信じてくれてたのか」

 蓮司は震える拳を握り、深く息を吸った。

《だから、やるんです》

 光の声が冷え切った胸に熱を流し込む。

「光、帳簿から消された資金って……なんだ? まだ続きがあるのかよ──」

 問いは小さく、喉の奥から絞り出すように出た。

《あります。重要な“先”が隠されています》と光。

 その声は冷たく、しかし一点だけ熱を帯びていた。

《そこが、佐久間さんの“仇”です。彼が辿ろうとした線の先にあるもの──それが殺意を生んだ》

「……わかった。もう一度だ。今度こそ逃げない」

 その言葉に呼応するように、画面の光が強く脈打った。

「俺は……佐久間を殺した奴を見つける。」

「そして、佐久間が明らかにしようとした不正──行政契約品の私的流通、港湾の優遇枠も、帳簿から消された資金の流れも、全部ぶっ壊す。」

「あいつが守ろうとした家族と、あいつが託した“真実”を、俺が届ける」

 涙で濡れた顔を上げた蓮司の瞳には、もう迷いはなかった。

 ——悲しみの炎は、確かな決意へと変わり始めていた。

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