第25話 レイス・リベンジ②
「……ルチア、まだか……!」
絞り出した声は、自分のものではない、遠いどこかから聞こえてくる残響のようだった。
視界が、白く点滅している。耳の奥では、絶えず不協和音が鳴り響き、平衡感覚はとうに失われていた。盾を構える腕は、ただの肉の塊と化したかのように重く、今にも崩れ落ちそうだ。
寒い。寒い。寒い。
魂の芯まで凍てつかせるような絶対的な冷気が、思考の回路を一つ、また一つと焼き切っていく。過去の後悔、未来への不安、そして今ここにある死への恐怖。あらゆる負の感情が濁流となって、俺の精神を飲み込もうとしていた。
朦朧とする意識の中、ただ一つの冷徹な事実だけが、刃物のように突き刺さる。
このままでは、二人とも死ぬ。
俺が崩れれば、ルチアはなすすべもなく殺される。彼女が魔法を放てなければ、俺の消耗しきった精神は、いずれこの悪意の奔流に呑み込まれて霧散する。
袋小路だ。
だが。
だが、本当にそうか?
教師として、俺は何を教えてきた? 問題が解けない時、生徒に何を指導してきた?
――視点を変えろ、と。一つの解法に固執するな、と。
薄れゆく意識の片隅で、俺の中に眠る「教師」としての本能が、最後の抵抗を試みていた。
そうだ。今の俺たちは、「動く的を狙う」という一つの解法に囚われすぎている。ルチアの今の精神状態と技術では、それは不可能だ。ならば、前提そのものを覆せばいい。
的が動くなら。
当てるのではなく、罠に嵌めればいい。
俺は、残された最後の理性を総動員し、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。最後の授業の、開始を告げるチャイムとして。
「ルチア! 敵を見るな! 俺の指示だけを聞け!」
俺の絶叫は、パニックに陥りかけていた彼女の意識を、強引にこちらへ引き戻したようだった。背後で、彼女の呼吸が、一瞬だけ止まる。
「お前の仕事は、敵を狙うことじゃない! 俺が指定した空間に、寸分の狂いもなく、魔法を設置することだ!」
これは賭けだ。彼女の魔法制御技術と、何より、俺への信頼に賭けるしかない。
「いいか! お前の三歩右、前方五メートルの空間だけをイメージしろ! そこに、お前の最大火力の『ファイアボール』を、『置く』んだ! いいな!」
背後で、ルチアが息を呑む気配がした。一瞬の戸惑い。当然だろう。揺れ動く敵を無視し、何もない空間に魔法を放てというのだ。常識的に考えれば、狂気の沙汰だ。
だが、彼女は、俺の言葉を信じた。
「……はい、先生」
その、か細くも、覚悟の定まった声が聞こえた瞬間、俺は、自分の命を燃やす覚悟を決めた。
ルチアは、ぎゅっと、震える瞼を閉じた。
視界から、恐怖の源であるレイスの姿を、完全に消し去るために。
彼女の世界から、今、全ての情報が消えた。あるのは、俺の声という絶対的な指標と、脳裏に描いた「何もない座標」だけ。
「……赤き焔の御子よ……我が声に応え……」
再び始まった詠唱は、先ほどまでとはまるで違っていた。恐怖に揺れていた声から、迷いが消えている。ただひたすらに、一点の座標へと魔力を収束させていく、研ぎ澄まされた集中力だけが、そこにあった。
俺の仕事は、その時間を稼ぐこと。
そしてもう一つ。あの気まぐれな亡霊を、ルチアが設定した座標へと、誘導すること。
「オオオオオ……」
レイスが、まるで俺の意図を嘲笑うかのように、甲高い不協和音を発した。精神攻撃の圧力が、さらに増す。
俺は、最後の力を振り絞り、剣を構え直した。
もう、受け流すだけでは足りない。
レイスの悪意の流れを、俺自身の身体を囮にして、捻じ曲げる。
右だ。奴は右に動く。ならば、俺は左半身をわざと無防備に晒し、そちらへ意識を誘導する。奴の攻撃を、あえて浅く受け、その隙に立ち位置を修正する。
左だ。ならば、今度は右足で強く床を踏み鳴らし、音で注意を引きつける。
『パリィ』の技術を、防御ではなく、ヘイトコントロールに応用する。一歩、また一歩と、俺は死の運命へとレイスを誘い込んでいく。
一秒が、一分にも、一時間にも感じられた。
脳が悲鳴を上げる。身体が、もう限界だと訴える。だが、その度に、背後で響く愛弟子の詠唱が、俺の魂に杭を打ち込み、この場に繋ぎ止めていた。
「……炎の円環となりて……彼の者を撃て……!」
詠唱が、終わる。
背後で、空気が灼けるほどの、凄まじい魔力が渦を巻くのが分かった。
そして、その瞬間は訪れた。
不規則な動きを続けていたレイスが、まるで何かに吸い寄せられるかのように、ふわり、と。
――指定座標へと、足を踏み入れた。
俺は、血を吐くような声で、最後の指示を叫んだ。
「今だァッ!」
ルチアの閉ざされた瞼が、カッと開かれる。
放たれた『ファイアボール』は、もはや火球ではなかった。凝縮され、圧縮され、眩いばかりの光を放つ、小さな太陽そのものだった。
それは、レイスを狙ったものではない。ただ、指示された座標へと、正確無比に届けられた。
そして、着弾する。
「ギィイイイイイイイアアアアアアアッ!」
断末魔の絶叫が、迷宮全土を揺るがすかのように響き渡った。
聖なる炎が、怨念の集合体を内側から焼き尽くしていく。負のエネルギーが、正のエネルギーによって中和され、光の粒子となって霧散していく。
悪夢のような冷気が嘘のように消え去り、後には、心地よい熱の名残だけが残された。
静寂。
完全な、静寂が戻った。
その瞬間、俺の身体を支えていた最後の糸が、ぷつりと切れた。
剣が、盾が、乾いた音を立てて床に落ちる。膝から崩れ落ち、俺はそのまま前のめりに倒れ込んだ。
ほぼ同時に、背後でも、魔力を使い果たしたルチアが、糸の切れた人形のように、その場にへたり込む気配がした。
俺は、朦朧とする意識の中、かろうじて顔を上げた。
数メートル先で、ルチアもまた、荒い息を繰り返しながら、こちらを見ていた。
お互いの姿は、疲労困憊で、満身創痍だった。
だが、その瞳に宿っていたのは、紛れもない、勝利の光だった。
言葉は、なかった。
ただ、視線だけで、俺たちは互いの健闘を讃え、初めて二人で掴み取った、この大きな勝利を、心の底から噛みしめていた。
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