第18話 復讐の理由

 降り続いていた雨は、夜の間にすっかり上がっていた。

 窓から差し込む朝日が、部屋の埃をきらきらと照らし出している。まるで、この街全体が洗い清められたかのような、清々しい朝だった。


 俺とルチアは、宿の主人が用意してくれた簡素な朝食を、テーブルを挟んで黙々と食べていた。


 昨日までの、どこか張り詰めていた空気とは違う。かといって、打ち解けたわけでもない。


 今日から、何か別の、まだ名前のない関係が始まろうとしている。その事実が、俺たちの間にぎこちない、しかし確かな一線を生んでいた。


 先にパンを食べ終えた俺は、カップに残っていたぬるい水を飲み干すと、居住まいを正した。


 無理に聞き出すべきではない。トラウマを抱えた子供に対する接し方の基本だ。まずは、相手が心を開けるだけの安全な環境を整え、辛抱強く待つ。


 俺は、自分の役割を思い出すように、意識を切り替えた。

「俺は、ケイ・アキヤマだ」

 静寂を破ったのは、俺の声だった。


「この街に来て、まだ日は浅い。……元の場所では、教師という仕事をやっていた。人に、ものを教える仕事だ」


 なぜ、そんな話をしたのか。自分でもよくわからなかった。

 ただ、俺が何者であるかを先に開示することが、彼女の警戒心を解くための、最初のステップであるように思えたのだ。


 ルチアの肩が、ぴくりと小さく震えた。だが、こちらを見ることはない。

「無理に話す必要はない。気が向いたらでいい。お前のことを、少しだけ教えてくれないか」


 俺は、カウンセリングを行う時のように、できるだけ穏やかな声で語りかけた。


 しばらくの間、沈黙と小鳥のさえずりだけが部屋を満たしていた。

 やがて、ルチアが、ほとんど聞き取れないようなか細い声で、ぽつりと呟いた。


「……ケイは、冒険者なの?」

 その問いは、俺にとって少し意外なものだった。


「ああ。今は、な」

 俺は、短く肯定する。その答えに、ルチアはほんの少しだけ顔を上げた。


「……パパと、ママも、冒険者だった」

 言葉の端々から、両親への深い愛情と尊敬が滲み出ていた。


 俺は、この好機を逃すべきではないと判断した。

「自慢の両親だったんだな」


 俺がそう相槌を打つと、ルチアは、この部屋に来て初めて、はっきりと頷いた。

「……うん。パパは、大きな剣を使う、すごい剣士だった。オークやゴブリンナイトだって一刀両断だったし。ママは、火の魔法が得意で……モンスターの群れを焼き払って少しも近づけなかったの。二人とも、すごく、強かった…」


 途切れ途切れに語られる思い出話は、どれも輝かしいものばかりだった。街の人々から頼りにされていたこと。どんなに手強いモンスターも、二人で力を合わせれば、倒してしまうこと。


 だが、その表情はすぐに曇り、再び深い悲しみの色に沈んでいく。


「でも……。一緒に迷宮に潜ったあの日……」

 何があったのか。


 聞かなければならない。彼女を本当の意味で「鍵」とするためには、その心の奥底にある傷の正体を、知る必要がある。


 俺は、覚悟を決めた。

「なぜ、お前のような幼い子が、両親と一緒に迷宮に? ギルドカードはもっているのか?」


 その問いは、残酷な引き金だった。

 ルチアの瞳から、堰を切ったように大粒の涙が溢れ出した。毛布を握りしめる指先が、白くなるほどに力がこもっている。


「……わたしの、せいなの」

 嗚咽を漏らしながら、彼女は語り始めた。


「あの日は……わたしの、誕生日だったから。こっそり忍びこませてもらったの……。わたし、冒険者になりたかったから…」

 誕生日プレゼント。それが、全ての始まりだった。


 彼女の両親は、冒険者志望の一人娘に、迷宮の中層にあるという、迷宮の淡い光を受けて輝く、この世でも珍しい美しい水晶群を見せてあげようとしたのだという。


 それは、ありふれた、しかしあまりにも悲惨な物語だった。

 想定外のモンスターの群れとの遭遇。単体では大したことのないゴブリンナイトやゴブリンメイジが軍隊のように襲い掛かってきた。この階層でそんなことが起きたことなどいままでなかったのに。

 両親は、たった一人の娘を守るために、絶望的な戦いに挑んだ。


「逃げろ、って……パパが。……生きて、って……ママが」

 ルチアは、ただ逃げることしかできなかった。

 背後で響く両親の最後の絶叫と何かが焼ける音、爆発音と衝撃波を背にしながら。


 そして、中層から少しずつ少しずつモンスターから見つからないように、歩みを進めた。携帯食も尽きて、おなかが減って泣きたくなっても我慢した。生きて帰ることが二人の願いだから。


 そして、命からがら迷宮を脱出した彼女を待っていたのは、ルールを破った両親の死を嘲笑うかのような、街の人々の冷たい視線だけだったという結末。

さらに両親の遺産は何もかもギルドと顔も知らない親類に奪われ、彼女の手元には何も残らなかった。


 俺は、かけるべき言葉を見つけられなかった。

 どんな慰めも、この少女が負った傷の前では、あまりに無力で空々しい。


 俺は、ただ黙って、彼女の話に耳を傾け続けた。

 一通り話し終えると、ルチアは泣きじゃくりながら、ぽつりと言った。


「だから、捨てたの」

「何をだ?」

「……名前」

 その言葉に、俺は核心を突く質問を投げかけずにはいられなかった。


「なぜ、名前を捨てたんだ? それは、君の両親がくれた、大切なものだったんだろう?」


 その瞬間、ルチアの身体から、今まで押し殺していた感情が、まるで火山のように噴き出した。


「だって、守れなかったから!」

 それは、悲しみだけではない。自分自身への、どうしようもない怒りと絶望が入り混じった、魂の叫びだった。


「パパとママがくれた名前は! 二人が、愛してくれた私の名前だから! 弱いまま、何もできなかった私に、あの名前を名乗る資格なんて、ない!」

 か弱い少女ではない。


 その小さな身体の奥には、あまりにも強く、あまりにも純粋な意志が宿っていた。

 彼女は、両親から与えられた名前を汚すことを、何よりも恐れていたのだ。


 その誇りの高さゆえに、自分自身を罰し、過去を捨てようとしていた。


 俺は、もう迷わなかった。

 この少女は、守られるだけの存在ではない。


 彼女は、自らの足で立ち、戦う意志を持っている。

 ならば、俺がすべきことは、慰めや同情ではない。


「そうか」

 俺は、静かに、しかしはっきりとした口調で言った。


「なら、強くなればいい」

 ルチアが、涙に濡れた顔を上げて、俺を驚いたように見つめる。


「私が強く……? できるの? こんな逃げ出した私が?」


 俺は、その真っ直ぐな瞳から視線を外さずに続けた。

「できる。俺は、人にものを教えるのが仕事だった。どうすれば人が『わかる』ようになり、『できる』ようになるか。それだけを、二十年間ずっと考えてきた」


 俺は、静かに立ち上がった。

 そして、ベッドの前に立ち、膝を抱える少女を見下ろす。


「お前が本気で強さを望むのなら、俺が、お前を育てる」


 それは、同情から出た言葉ではなかった。

 この「ルチア」という、魔法の才能を秘めた原石を、磨き上げてみたいという、教師としての抑えがたい衝動。そして、この子の光を、この理不尽な世界で消えさせてはならないという、強い使命感。なにより、美千花に似たまっすぐな意思を宿した瞳。


 俺の言葉を、ルチアはただ黙って聞いていた。

 やがて、彼女の瞳から涙が引いていく。


 そして、その奥に宿る光が、今まで以上の、決然とした輝きを放った。

 彼女は、ゆっくりと俺を見上げ、震える唇を開いた。


 それは、もはや懇願ではなかった。

 俺と彼女の間で交わされる、最初の、そして最も重要な契約の言葉だった。


「私を、冒険者にしてください」

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