第14話 三階層の洗礼
明確な解法は、人に希望を与える。
資料室で見つけた「二階層は無視し、三階層のオークを狩る」というセオリー。それは、暗闇の中で手探りを続けていた俺にとって、まさに地図であり、羅針盤だった。
壁だと思っていたものは、ただの障害物だった。そして、その先には、進むべき明確な道が示されている。
なんと、わかりやすい。
俺の足取りは、迷宮へ向かう道すがら、これまでにないほど軽やかだった。
心の中は、新たな計画に対する期待で満ちている。
まずは三階層でオークを狩る。そこでレベルを上げ、資金を稼ぎ、装備を整える。そうして盤石な基盤を築き上げれば、いずれはさらに下の階層へも挑めるだろう。
その先に、俺が求める「帰還」への道が続いているはずだ。
このセオリー通りに進めば、きっと道は開ける。
その確信が、レイスに完膚なきまでに叩きのめされた心の傷を、綺麗に癒してくれていた。
俺は、迷いなく三階層へと続く階段を下りていった。
そこに広がっていたのは、一、二階層とは全く質の異なる空間だった。
狭く、息が詰まるような通路ではない。天井は高く、まるで自然の鍾乳洞のように、広々とした空間がどこまでも続いている。
そして、鼻をつくのは、カビ臭さではなく、もっと生々しい獣の匂いだった。濃密な体臭、そして、そこかしこに残された糞尿の臭気。ここは、もはやダンジョンというより、巨大な生物の巣穴と呼ぶ方がふさわしい。
しばらく進むと、開けた広間のような場所に出た。
そこに、奴はいた。
一体の、
ゴブリンの倍はあろうかという、圧倒的な巨体。鎧のように分厚い脂肪が、その全身を覆っている。醜悪な豚の鼻面からは、まるで蒸気機関車のような、荒々しく湿った息が絶えず吐き出されていた。
その手に握られているのは、俺の胴体ほどもある、巨大な棍棒。
ただ、そこにいるだけで、空気が重くなる。地面が、その質量に耐えきれず、わずかに震えているような錯覚さえ覚えた。
その圧倒的な存在感に、俺は一瞬、完全に気圧された。足が、縫い付けられたように動かない。
だが、すぐに冷静さを取り戻した。
恐怖に支配されては、勝てる相手にも勝てない。俺は、教師が生徒を観察するように、目の前の怪物を分析し始めた。
巨体ゆえか、動きは鈍重に見える。知性も、ゴブリンと同程度か、それ以下だろう。
だが、あの質量。あの棍棒。
まともに食らえば、一撃で俺の身体は肉塊と化すに違いない。
正面からの戦闘は、愚策の極みだ。
俺は、オークに気づかれぬよう、ゆっくりと後退し、岩陰に身を隠した。
そして、ゴブリンを狩る時に確立した戦術を、この巨大な「教材」に応用することにした。
死角からの奇襲。狙うは、機動力を奪うためのアキレス腱。
俺は、オークの注意を引くために、小さな石を遠くへ投げた。オークが、そちらに気を取られた、その一瞬の隙。
俺は、風のように岩陰から飛び出し、オークの背後へと回り込んだ。
そして、ありったけの力を込めて、その太い足首に生えたアキレス腱目掛け、剣を突き立てた。
手応えは、あった。
だが、それは肉を裂き、骨を断つ感触ではなかった。
ぐにゃり、という、まるでゴムの塊を突き刺したかのような、不快な感触。
俺の剣は、オークの分厚い脂肪と、その奥にある強靭な筋肉の層に阻まれ、腱にまで達する前に、その勢いを完全に殺されていた。
「ブゴッ!?」
オークが、ようやく背後の小さな存在に気づき、苛立たしげな声を上げる。
それは、ダメージによる苦痛の叫びではなく、まるで、まとわりつく羽虫を追い払うかのような、煩わしさからくる声だった。
まずい。
奇襲の失敗を悟った俺は、即座に距離を取ろうと後方へ跳んだ。
その俺の動きに、さらに苛立ちを募らせたのだろう。オークは、狙いを定めるでもなく、ただ鬱陶しげに、その巨大な棍棒を横薙ぎに振り払った。
それは、本気の攻撃ですらない。牽制。あるいは、ただの威嚇。
だが、その何気ない一撃が、俺に絶対的な現実を叩きつけた。
俺は、迫りくる棍棒に対し、反射的に剣を構え、『パリィ』を発動させていた。
レイスには通用しなかった、俺の唯一の防御スキル。物理攻撃に対してなら、絶対的な自信があった。
――剣と棍棒が、激突する。
その瞬間、俺の腕に、今まで経験したことのない、凄まじい衝撃が走った。
受け流す、などという次元ではない。
まるで、高速で走る鉄の塊に、正面から撥ね飛ばされたかのようだった。
剣は、あっさりと弾き飛ばされ、俺の身体はコントロールを失って宙を舞う。そして、背中から、近くの岩壁へと叩きつけられた。
「ぐ……っ、ぉえ……!」
肺から、全ての空気が強制的に搾り出される。衝撃で、一瞬、意識が真っ白に染まった。
背骨が、軋む音を立てたような気さえした。痺れる腕は、もはや感覚がない。
俺は、壁に寄りかかったまま、その場に崩れ落ちた。
目の前で、オークがゆっくりとこちらに身体を向け直すのが見える。
その濁った瞳には、獲物に対する明確な殺意が宿っていた。
俺は、瞬時に、そして完全に、理解した。
次元が、違う。
これは、今の俺が、どうあがいても戦っていい相手ではない。
オークが、とどめを刺すべく、その巨大な棍棒を振り上げる。
だが、その一撃が振り下ろされるよりも速く、俺は最後の力を振り絞って、その場から転がるように離脱していた。
プライドも、悔しさも、今はどうでもいい。
ただ、生き延びることだけを考える。
俺は、這うようにして、三階層へと続く階段を駆け上がった。
地上へ戻った俺は、迷宮の入り口の壁に寄りかかり、ずるずるとその場に崩れ落ちた。
全身が、悲鳴を上げている。
だが、それ以上に、心が軋んでいた。
なぜだ。
あの手記は、嘘だったのか? あのベテラン冒険者は、新人を陥れるために、あんなことを書いたとでもいうのか?
いや、違う。
俺は、痛む頭で冷静に思考を巡らせた。
手記の主に、そんなことをするメリットはない。
ならば、答えは一つだ。
情報が、足りない。
あのセオリーには、必ず、それが成立するための『前提条件』があるはずだ。
推奨レベル、最低限必要な装備、あるいは、単独ではなく複数人で挑むことが前提なのかもしれない。
俺は、その最も重要な部分を、またしても見落としていたのだ。
悔しさに、唇を強く噛み締める。
だが、絶望はしなかった。
問題が解けないのなら、その問題が解けるだけの情報を、さらに集めればいい。
俺は、教師だ。
わからないことを、わからないまま放置するのは、俺の信条に反する。
俺は、軋む身体を無理やり引きずるようにして、立ち上がった。
そして、再び、あの埃っぽい知識の宝庫へと、歩き出した。
新たな「問い」の答えを、見つけ出すために。
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