第6話 思い出の価値

 冒険者ギルドの重厚な扉を背に、俺は再びアークライトの喧騒の中に立ち尽くしていた。登録は済ませた。だが、それはただ入場券を手に入れたに過ぎない。この命懸けの舞台に上がるには、あまりにも無防備で、無一文だった。


 最低限、身を守るための剣と盾は必要だ。宿の主人に聞いた話では、迷宮の浅い階層でも、ゴブリンのような魔物は当たり前のように現れるという。素手で立ち向かえる相手ではない。


 問題は、金だった。


 俺は路地裏に身を寄せ、スーツの内ポケットから全ての所持品を取り出した。数枚の万札と小銭が入った財布。動かないスマートフォン。そして、胸ポケットに差していた、一本の万年筆。


 日本の紙幣や硬貨は、この世界では装飾的な価値すらないだろう。スマートフォンは、もはやただの黒い板だ。


 そうなると、金に換えられる可能性があるのは、この万年筆だけだった。


 黒く艶やかな樹脂のボディに、金色の装飾が施された、ドイツ製の高級万年筆。ずしりとした重みが、手のひらに心地よい。キャップを外せば、精巧な彫刻が施された18金のペン先が、鈍い光を放つ。


 これは、単なる筆記用具ではなかった。俺にとっては、それ以上の意味を持つ、特別な品だ。


 それを手にした途端、脳裏に遠い日の記憶が蘇る。


 あれは、結婚してまだ二年目のことだった。六畳一間のアパートで、二人分の給料をやりくりしながら、それでも未来への希望に満ちていた頃。俺が、国語教師として初めてクラス担任を任された、その日の夜だった。


『慧さん、おめでとう。これで、ようやく夢への第一歩ね』


 食卓で、妻の理恵はそう言って微笑んだ。まだ、彼女の笑顔に翳りはなく、その言葉には俺への純粋な信頼と期待が満ちていた。


『これ、お祝い。あなたには、素敵な言葉をたくさん紡いでほしいから』


 彼女が差し出した小さな箱の中に入っていたのが、この万年筆だった。当時の俺たちの収入では、決して安い買い物ではなかったはずだ。


『いいのか、こんな高価なもの』


 驚く俺に、理恵は悪戯っぽく笑いかけた。


『いいのよ。未来の偉大な先生への、先行投資なんだから』


 あの頃、俺たちは確かに心で繋がっていた。互いの夢を語り合い、支え合い、同じ未来を見ていると信じていた。いつからだろう。彼女が合理性と効率を口にするようになり、俺が理想と現実の狭間で疲弊し、二人の会話から色が失われていったのは。


 家庭が息苦しいだけの場所になり、娘との間に深い溝ができてからも、この万年筆だけは、俺にとってあの頃の輝かしい記憶の象徴であり、唯一の心の支えだった。辛いことがある度に、俺はこの冷たい感触を確かめ、自分を奮い立たせてきたのだ。


 それを、売る。

 生き延びるために、過去の自分を、理恵との繋がりを、金に換える。


 罪悪感で、胸が張り裂けそうだった。だが、同時に、冷徹な理性が囁きかける。これを売ってでも生き延び、元の世界へ帰らなければ、この思い出を守ることすら意味がなくなる、と。


 俺は、万年筆を強く握りしめた。そして、顔を上げ、大通りでひときわ武骨な看板を掲げている「武器屋」の扉へと、重い足を引きずった。


 店の中は、鉄と油の匂いで満ちていた。壁一面に、剣や槍、斧といった殺傷のための道具が所狭しと並べられている。その光景は、文化や知性とは対極にある、剥き出しの暴力の世界だった。


 カウンターの奥で、熊のような大男が、巨大な砥石で剣を研いでいた。俺の姿を認めると、彼は作業の手を止め、値踏みするような鋭い視線を向けてきた。


「……なんだ、あんた。ひやかしなら帰りな。ここは、お上品な旦那が来るところじゃねえ」

「これを、買い取ってもらいたい」


 俺はカウンターに、万年筆をそっと置いた。


 店の主人は、怪訝そうな顔でそれを一瞥すると、無骨な指で乱暴に掴み上げた。そして、キャップを外し、ペン先を光に透かすようにして検分する。


「……ふん。ペン、か。凝った作りしてやがるな。だが、こんなもんは、ここでは何の役にも立たねえ。インクはどうした?」

「インクは、ない」

「だろうな。ただの飾りだ。せいぜい、貴族の姉ちゃんが手紙を書く時に使うくらいのもんだが……その手の連中は、こんな中古品は買わねえ」


 彼は、俺にとっては何物にも代えがたい宝物を、まるで道端の石ころのように評した。そして、無情な値を告げる。


「……銅貨30枚。それが、俺が出せる値だ」


 銅貨30枚。この世界の貨幣価値はまだ分からない。だが、その言葉の響きが、俺の期待を無残に打ち砕くには十分だった。


「そん、な……これは、金も使われている、相当な品のはずだ」

「金? ああ、このペン先のことか。だが、こいつを溶かして金を取り出す手間を考えりゃ、そんなもんだ。それが嫌なら、他をあたることだな」


 男はそう言って、万年筆をカウンターに放り投げた。他に、行くあてなどない。俺がこの街で知る店は、この武器屋だけだ。足元を見られている。だが、俺に交渉の余-地はなかった。


「……わかった。それで、頼む」


 絞り出すような声でそう告げると、男は満足げに鼻を鳴らし、カウンターの下からじゃらりと銅貨の入った革袋を取り出した。


 思い出は、30枚の冷たい銅貨に変わった。


 そのなけなしの金で、俺は店の隅に立てかけられていた、最も安い剣と、木製の粗末な盾を手に入れた。


 剣を手に取る。刃こぼれし、バランスも悪い、ただの鉄の棒だ。言葉を紡ぐためにあった万年筆の、知的で文化的な重みとは全く違う。これは、ただ命を奪うためだけに存在する、無骨で、冷たく、暴力的な重みだった。


 この手で、俺は過去の自分と決別する。


 店を出ると、空はすでに茜色に染まっていた。俺は、手に入れたばかりの粗末な剣を強く握りしめる。その冷たい感触が、失った思い出の温かさを際立たせた。


 やがて、空に一番星が輝き始め、その隣に、赤黒い不吉な月が姿を現す。

 二つの月が見下ろす、この理不尽な世界で、俺は誓った。


 必ず帰る。


 この剣で、どんな血を流すことになろうとも。この手をどれだけ汚すことになろうとも。必ず生き延びて、理恵と美千花のいる、あの世界へ。


 犠牲にした思い出の価値は、俺が生きて帰ることでしか、証明できないのだから。

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