第3話 日常と非日常
けたたましい電子音で、意識が強制的に浮上させられる。スマートフォンのアラームだ。手を伸ばしてそれを止めると、部屋は再び静寂に包まれた。まだ窓の外は薄暗い。
体を起こすと、全身が鉛のように重かった。昨夜、ベッドに入ったのは午前二時を回ってからだ。溜まった採点と、明日の授業準備。それを終えても、すぐには眠れなかった。
寝不足からくる鈍い頭痛を抱えながら、俺はリビングへと向かう。食卓には、ラップのかけられた冷たい食事が一つだけ置かれていた。妻の理恵が用意してくれたものだろう。彼女も、俺と同じ学校に勤める数学教師だが、担当学年が違うため生活リズムは微妙にずれている。
味気ない朝食を胃に流し込み、着慣れたスーツに袖を通す。鏡に映った自分の顔は、四十代という年齢以上に疲弊しきっているように見えた。
満員電車に揺られ、他人の吐息と湿ったコートの匂いに耐えながら、俺は今日も職場である高校へと向かう。それが、俺、秋山慧の日常だった。
職員室のドアを開けると、すでに数人の同僚が出勤していた。澱んだ空気と、コーヒーの香り、そして大量の紙が発する独特の匂いが俺を迎える。自席に着き、パソコンの電源を入れた直後だった。
内線電話のコールが、やけにけたたましく鳴り響いた。
「はい、二年三組担任の秋山です」
『……秋山先生、うちの隆弘の件なんですけどお!』
電話の向こうから聞こえてきたのは、甲高いヒステリックな声。クラスの生徒、鈴木隆弘の母親からだった。この声を聞いただけで、側頭部に痛みが走る。
「ええ、鈴木君のお母様。おはようございます。何かありましたでしょうか」
内心の疲労を悟られぬよう、努めて冷静な声を作る。教師という仕事は、ある種の役者でなければ務まらない。
『昨日、うちの子が部活で少し帰りが遅くなっただけで、先生、すごい剣幕で叱ったそうじゃないですか! うちの子、繊細なんです! あんなに大勢の前で怒鳴りつけられたら、心に傷が残るでしょう!? どうしてくれるんですか!』
怒鳴りつけただと? 事実を著しく捻じ曲げた主張に、眩暈がする。俺は昨日、下校時刻を大幅に過ぎても教室でだべっていた隆弘たちに、「早く帰らないとご家族が心配するぞ」と、ごく穏やかに声をかけただけだ。
「お母様、恐縮ですが、何か誤解があるかと。昨日、私が鈴木君に指導したのは事実ですが、決して怒鳴りつけるようなことはしておりません。下校時刻を守るよう、皆に伝えただけでして……」
『誤解ですって!? うちの子が嘘を言ってるって言うんですか! ああ、そうですか! 先生は生徒より自分の保身が大事なんですね!』
ああ、駄目だ。この手の人間との対話は、言語による意思疎通を目的としていない。相手が求めているのは、事実の確認ではなく、ただ自らの感情をぶつけ、相手を屈服させることだけだ。国語教師として、言葉の無力さを痛感する瞬間でもある。
「いえ、決してそのようなことは……。ただ、事実関係を正確にお伝えしなければと思いまして」
『もういいです! 教育委員会に報告させていただきますから!』
一方的に叩きつけられる理不尽な言葉の弾丸。俺はただ、ひたすらに耐え、嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
「……承知いたしました。この度は、私の指導力不足でご子息に不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ありませんでした」
結局、俺は意味のない謝罪の言葉を口にしていた。そうしなければ、この不毛な時間は永遠に終わらない。受話器を置くと、どっと疲労が押し寄せてきた。
昼休み、古文の授業で『枕草子』を教えていた時だった。
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて……」
抑揚をつけて朗読する。ほとんどの生徒は、机に突っ伏すか、窓の外を虚ろに眺めているだけだ。そんな中、ふと教科書に目を落とした俺は、奇妙な違和感に気づいた。
教科書に印刷された、見慣れたはずの平仮名が、一瞬だけ、まるで蚯蚓がのたくったような、見知らぬ古代文字の羅列に見えたのだ。
目を擦り、もう一度見る。そこには、いつも通りの日本語が並んでいるだけだった。
(……疲れているのか)
最近、こういうことが増えた。誰もいないはずの廊下から、獣の唸り声のようなものが聞こえたり、生徒の影が不自然な形に歪んで見えたり。全て、過労による幻覚や幻聴の類だろう。そう自分に言い聞かせ、俺は授業を続けた。
その日の夜。家に帰ると、リビングの明かりは消えていた。娘の美千花は、すでに自室にいるらしい。俺は買ってきたコンビニ弁当を電子レンジで温め、一人で食卓についた。
しばらくして、美千花がリビングにやってきた。冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いでいる。
「……美千花。飯は?」
「食べた」
短い返事。俺の方を見ようともしない。思春期の娘と父親の関係など、どこもこんなものかもしれない。だが、その距離が、やけに胸に堪えた。
時計の秒針が、カチ、カチ、と無機質に時を刻む音だけが、やけに大きく響く。俺が箸で弁当をつつく音と、美千花が麦茶を飲む喉の音。それ以外に、音はない。
何か、話さなければ。父親として、何か。
「学校は、どうだ。最近」
我ながら、あまりにありきたりな質問だと思った。美千花は一瞬だけこちらに視線を向けたが、その瞳には何の感情も浮かんでいなかった。
「……別に」
その一言を最後に、彼女は空になったコップを流しに置くと、再び自室へと消えていった。
残されたのは、温め直したせいで一部が妙に熱く、一部がまだ冷たいままの、味のしない弁当と、重苦しい沈黙だけだった。
深夜、日付が変わる頃に、妻の理恵が帰ってきた。彼女は進学クラスの担任で、連日、生徒の進路指導に追われている。
「おかえり」
「ん。まだ起きてたの」
ソファでうたた寝していた俺に、理恵は短く応える。彼女はスーツの上着を脱ぎながら、事務的な口調で言った。
「明日の職員会議の資料、目を通した? ああいう非効率な話し合い、時間の無駄よね。結論ありきで、もっと合理的に進めるべきだわ」
合理性。それが、理恵の口癖だった。彼女の言うことは正しい。正しいが、その正しさが、時々ひどく冷たいものに感じられた。
「……まあ、そうだな」
俺は曖昧に相槌を打つ。家族とは、非効率で、非合理的な感情のぶつかり合いの中で、それでも共にいることを選ぶものではないのか。そんな俺の考えを、理恵はきっと一蹴するだろう。
職場にも、家庭にも、俺の心休まる場所はなかった。
どうしようもない閉塞感に突き動かされるように、俺は深夜にもかかわらず、再び学校へと車を走らせていた。残った仕事を片付けるという、言い訳を盾にして。
誰もいない夜の校舎は、静かだった。職員室の自分の席に座り、パソコンの明かりだけを頼りに作業を進める。この、誰にも邪魔されない時間だけが、唯一の安らぎだった。
数時間が経ち、ようやく仕事に一区切りがついた。俺は椅子に深くもたれかかり、大きく息を吐く。そして、何気なく、窓の外に目をやった。
その瞬間、俺は自分の目を疑った。
夜空に、月が浮かんでいる。満月に近い、美しい月だ。
だが、その隣に。
もう一つ、同じ大きさの、赤黒く不気味に輝く月が浮かんでいた。
二つの月。
ありえない。そんなはずはない。幻覚だ。疲労が、ついに脳に異常をきたしたのだ。
そう思おうとしても、その光景はあまりにも鮮明で、圧倒的な現実感を伴って俺の網膜に焼き付いていた。自分の正気が、急速に失われていくような感覚に襲われる。
立っていられなくなり、椅子から崩れ落ちそうになった。激しいめまいが、視界をぐらぐらと揺らす。
まずい。意識が。
急速に遠のいていく思考の片隅で、俺はただ、二つの不吉な月が放つ、冷たい光に見つめられているのを感じていた。
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