第9話

◆視点:星野 命

天沢要との競争が始まった。奴が膨大な記録という名の過去の亡霊と睨めっこしている間に、私は未来へと繋がる「今」の声を拾うことにした。


「それで、日野。何か聞こえるか?」


私は、旧校舎の壁に耳を当てている日野に話しかけた。彼は私の問いに、びくりと肩を揺らしてから、おそるおそる顔を上げた。


「は、はい……。あの、変なことを言ってもいいですか……?」


「変なことこそ、歓迎だ。言ってみろ」


「壁が……壁の中から、すごく、悲しい音がするんです。ずっと昔から、誰にも気づいてもらえなくて、泣いているような……そんな音が、この学園のあちこちから、聞こえるんです」


悲しい音、か。面白い。普通の人間なら、ただの建物の軋みや風の音だと片付けてしまうだろう。だが、日野の耳は、物の記憶や感情のようなものまで捉えるのかもしれない。


「わかった。その『悲しい音』がする場所、全部覚えておけ。後で繋ぎ合わせる」


「は、はい!」


日野は、自分の力が役に立ったことが嬉しいのか、少しだけ表情を明るくした。次に、私は風間に目を向けた。彼は、学園の裏手にある畑で、野菜を納入しに来ていた近所の農家の老人と、のんびり世間話をしているところだった。一見、サボっているようにしか見えない。


「風間、何か収穫はあったか?」


私が声をかけると、老人は「おお、元気な嬢ちゃんだな」と笑い、風間は面倒くさそうにこちらを振り返った。


「収穫、ねえ。まあ、一つだけ、面白い話は聞けたぜ。この爺さん、子供の頃、よくこの学園に忍び込んで遊んでたらしい」


「ほう」


「その時、初代学園長を、何度か見かけたんだと。夜中に、一人で、空を見上げては、誰かと話しているように、何かを呟いていたらしい」


爺さんは、うんうんと頷いた。


「そうなんじゃよ。まるで、星さんとお話ししているみたいじゃったわい。わしは、てっきり、頭のおかしい人なんじゃと……」


「星と話す……」


私は、空を見上げた。青く澄み渡った、昼の空。初代学園長は、この空の向こうにある、無数の星々と対話していたというのか。


「爺さん、他に何か覚えていないか? その学園長が、どんなことを話していたか」


「うーん、そうさなあ……。一度だけ、はっきり聞こえた言葉がある。『未来の子供たちが、空っぽの器に、自分の好きな色を塗れるように』……そんなことを、言っておったかのう」


空っぽの器に、自分の好きな色を。その言葉は、私の胸に強く突き刺さった。


『白紙』の星命図。まさに、空っぽの器そのものだ。初代学園長は、私のような存在が現れることを、予期していたのかもしれない。


「礼を言う、爺さん。風間、行くぞ」


「へいへい」


私たちは、その場を後にした。観測室に戻る道すがら、私は頭の中で、三つの情報を並べていた。


・学園のあちこちから聞こえる「悲しい音」。

・初代学園長は、夜中に「星と話して」いた。

・そして、「空っぽの器に、好きな色を塗れるように」という願い。


これらは、バラバラの点だ。だが、私の頭の中では、一本の線で結ばれようとしていた。


「なあ、二人とも。この学園で、一番、星が綺麗に見える場所はどこだ?」


私の問いに、日野がおずおずと答えた。


「たぶん……今は使われていない、古い温室の屋上だと思います。あそこは、周りに高い建物がないですし……」


「古い温室……。日野、そこからも『悲しい音』は聞こえるか?」


「はい。むしろ、そこが一番、音が大きいような気がします」


決まりだ。答えは、そこにある。


「行くぞ。私たちの宝探しの、最初の扉は、そこだ」


私たちは、学園の敷地の最も奥まった場所にある、古い温室へと向かった。ガラスは所々割れ、蔦が建物を覆っている。まさに、廃墟という言葉がふさわしい場所だった。


「本当に、こんな場所に、何かあるのかよ」


風間が、訝しげに呟く。


「ある。私の直感が、そう告げている」


私たちは、軋む扉を開けて、中に入った。中は、埃っぽく、枯れた植物の匂いがした。だが、ガラス張りの天井から差し込む光が、不思議と神聖な雰囲気を作り出している。


温室の中は、思ったよりも広かった。枯れた観葉植物の鉢が、無秩序に並べられている。私たちは、その中央へと進んだ。


すると、そこだけ、ぽっかりと空間が空いており、床には、円形の石でできた、不思議な台座が設置されていた。表面には、何も模様は刻まれていない。ただ、磨かれたように、滑らかだった。


「日野、音は?」


「……この、下です。この台座の、真下から、聞こえます。すごく、近くで……」


日野は、確信に満ちた声で言った。風間が、台座を調べ、叩いてみる。


「ただの石の塊にしか見えないがな。隠し扉のようなものも、見当たらない」


「仕掛け扉なんかない。これは、もっと別の方法で、開けるものだ」


私は、あの農家の老人の言葉を思い出していた。『空っぽの器に、好きな色を塗れるように』。


空っぽの器。白紙の私。私という『鍵』でなければ、この『錠前』は開かない。


私は、台座の前に立った。そして、覚悟を決めて、自分の指先を、小さく噛み切った。ぷくりと浮かんだ血の玉を、私は、躊躇なく、台座の中央へと垂らした。


「なっ、何をするんだ、命!」


風間が、驚きの声を上げる。


私の血が、滑らかな石の表面に染み込んでいく。すると、次の瞬間。台座全体が、淡い光を放ち始めた。そして、ゴゴゴ、という重い音と共に、私たちの足元の床が、ゆっくりと横にずれていく。


その下には、暗闇へと続く、螺旋階段が現れた。


「……当たり、だな」


私は、階段の先に広がる暗闇を見下ろし、にやりと笑った。これが、『失われた星』へと至る、最初の、そして、最も重要な手掛かり。


天沢要。あんたの小難しい計算よりも、私の直感の方が、一枚上手だったようだな。


◆視点:天沢 要

旧図書館の地下書庫。黴と古い紙の匂いが充満するこの場所で、俺は焦りを感じていた。


目の前には、初代学園長が残したとされる、膨大な量の古文書。俺の計画では、この中に、必ず『失われた星』に関する記述が隠されているはずだった。だが、何時間も調査を続けているにも関わらず、決定的な手掛かりは、一向に見つからない。


「ねえ、天沢くん。ちょっと、面白いことがわかったよ」


隣で、古文書のインク成分を分析していた月島が、声をかけてきた。彼女は、少しも退屈そうな素振りを見せず、むしろ、この状況を楽しんでいるようだった。


「何かわかったのか?」


「うん。ここに集めた、初代学園長が書いたとされる文書、全部、同じ時代の、同じインクが使われてる。でもね、たった一枚だけ、ほんの少しだけ、違う成分が混じってるの」


彼女は、一枚の羊皮紙を、ピンセットでつまみ上げ、俺に見せた。


「違う成分?」


「そう。ごく微量だけど……人間の涙に含まれる、塩分と、よく似た組成を持ってる」


涙の塩分。非論理的で、理解不能な情報だ。だが、月島の分析能力は、この学園で随一。彼女が言うなら、間違いはないのだろう。


俺は、彼女から羊皮紙を受け取り、そこに書かれた文字に目を通した。それは、誰かに宛てた手紙でも、研究記録でもなく、短い詩のような文章だった。


『星よ、語りかけておくれ。未来を識るという、この罪深き力を持つ、空っぽの私に、お前たちの、本当の輝きを』


空っぽの私。農家の老人が言っていたという、星野の言葉が、脳裏をよぎった。『空っぽの器に、好きな色を塗れるように』。


偶然か? いや、偶然にしては、出来すぎている。


その時だった。俺が携帯している、主席だけが持つことを許された、学園の管理装置に接続できる端末が、けたたましい警告音を発した。画面には、最高レベルの警報を示す、赤い文字が点滅している。


『第三区画、旧温室地下の扉、外部からの認証により開錠』


旧温室。俺の記録では、ただの廃墟として登録されている、何の変哲もない場所のはずだ。そこの、記録にすらない地下の扉が、開いた?


まさか。


「月島、行くぞ。場所を変える」


「えー、これから面白くなりそうだったのに」


「もっと面白いものが、見られるかもしれん」


俺は、月島を促し、地下書庫を飛び出した。頭の中では、全ての情報が、一つの可能性へと収束していく。


星野命。彼女は、俺が、過去の『死んだ情報』に囚われている間に、学園という場所に、今も息づく、『生きた情報』を、掴んだというのか。


俺たちが、旧温室にたどり着いた時、そこには、案の定、床にぽっかりと口を開けた、地下への入り口があった。風間と日野が、入り口の周りで、警戒するように、こちらを見ている。


「……どうやら、君の勝ちのようだな、星野命」


俺が、階段の下に広がる暗闇に向かって声をかけると、中から、彼女の、勝ち誇ったような声が聞こえてきた。


「当たり前だ、天沢要。あんたの頭でっかちな計画じゃ、宝物には、一生たどり着けないぜ」


俺は、自分の計画が、完璧ではなかったことを、認めざるを得なかった。俺が追いかけていたのは、初代学園長が用意した、壮大な目くらまし。ただの幻影だったのかもしれない。


俺の論理が、初めて、彼女の直感に、完膚なきまでに打ち負かされた瞬間だった。

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