第8話 追跡


「お好きな席にどうぞ……」


 僕がそう言うと、彼女は僕を見ることなく真っ直ぐに窓際の席に座った。

 その様子が僕はどうしても気になり、チラチラ見てしまう。やけに小奇麗な黒いスカートを履いている。これから誰かと会うのだろうか。または、会った後なのだろうか。それにしても、昔から変わっていないな。いや、昔より大人びているのは間違いないが、芯から変わっていないということが分かる。


 彼女にこれ以上下手に接触して僕だと気づかれないように、僕は他の従業員にホールを変わってもらうように懇願した。僕はホール側からは見られないキッチンに避難し、一息ついた。


 まさか、彼女と会うなんて。東京にいることは知っていたが、このあたりに住んでいるのか? なんだってうちの店に……。


 そういえば彼女は、柳透矢が好きだったな。まだあいつのファンで、ユーチューブを見てこの店に来たのだろうか。

 いや、そもそもみらいハンバーグに行ってみたかったと、付き合っていた頃に言っていたような気がする。それで、その事をふと思い出して来てみたのなら残念。ここのハンバーグは期待するほどおいしくはないよ。まあ、ミーハーの君なら気に入るかもしれないけど。

 いやいや、ミーハーの奴なんかこんなオワコンの店に来ないか。じゃあ、なんで彼女は……。


 僕は手も動かさず呆然と考えていたが、周りの従業員が忙しなく動いているのに気づき、慌てて料理を作り始めた。


 なぜ僕は彼女から隠れようとしているのか。あの一件において僕に非など一つもない。僕は堂々としていればいいのだ。むしろ隠れたいのは中村ひかりの方だろう。

 ……いや、彼女は僕を裏切ったことなど忘れているのかもしれない。彼女は僕にとってオワコンだが、僕は彼女にとって最早オワコンでもなんでもなく、人生における顧みるまでもない小さな事象の一つだったのかもしれない。


 注文も落ち着き、キッチンでの仕事が少なくなったので、恐る恐るホールに出ると彼女の姿は見当たらなかった。


 良かった。もう帰ったのか。そう安心して彼女の席のバッシングに向かう。そして僕はあるものを見つけた。


 薄緑色のケースに入れられたスマートフォン。手に取るとホーム画面が起動した。そこには、大きな滝を背に、白いコートに身を包んだ中村ひかりと、カーキのベストを着たショートカットの女性が並んでいる写真が映されていた。ひかりの隣の女性には見覚えがある。この隠しきれていないふてぶてしさ……。


 そうだ、こいつは町山だ。ひかりの親友の存在を思い出すや否や、懐かしさと憎たらしさが同時に込み上げてきて、胸やけがした。


 それにしても、二人で旅行に行くほど、今も仲が良いんだな……。いや、そんなことを考えている場合ではない。他人の忘れたスマホを覗き見るなんて趣味が良いとは言えない。


 僕はそのスマホをバックルームの忘れ物置き場に持っていこうとしたが、少し考えて足を止めた。


 僕が忘れ物置き場にこれを置いておくことで、彼女はこの店にスマホを取りに来るだろう。そうなると、僕はほとんどシフトを入れているから、必然的に彼女とまた顔を合わす。それは嫌だ。僕はもう彼女と会いたくないんだ。それなら、今彼女に追いついて届けた方が良い。


 誰か手の空いている奴はいないか。周りを見渡すが、皆それぞれ多忙を極めていて、スマホを届けてくれるよう頼めるような雰囲気ではない。


 仕方がない。僕がサッと渡してこよう。またいつ顔を合わすのかと恐れ続けるよりはマシだ。一瞬渡すだけだったら僕だとバレないだろうし。


 僕は店を飛び出し、彼女の姿を探した。彼女が店を出てからそこまで時間は経っていないはずだ。


 ひかりは、店から少し離れた交差点で信号が変わるのを待っていた。


 僕が追いかけようと駆けだすと、信号は青に変わり、彼女は横断歩道を渡って向こうの道へ歩いて行った。


 僕もなんとか信号が変わる前に渡り切り、道を曲がって角に隠れそうな彼女の背に向かって呼びかけた。

「すいません! ちょっと!」


 彼女ははたと足を止めてゆっくりとこちらを振り返った。そして、僕の姿を認めた途端、顔色をさあっと引かせ、前に向き直り駆け出した。


「ええっ⁉」


 僕は突然のことに驚き、何もないのに躓きそうになった。なぜ逃げる? 僕をストーカーか何かと勘違いしているのか?


 僕も追わざるを得なかった。何か悪い思い違いをしているなら、正さねば。ただ僕は忘れ物を届けたいだけなのに。心の中に善意とも自尊心とも付かぬ動機が渦巻き、僕を突き動かした。


 必死で走る彼女。そしてその後ろ姿を必死で追う僕。だが、彼女の全体的に黒っぽいシルエットはだんだんと小さくなってゆく。なんで、走りづらそうなスカートを履いているのにそんなに速いんだ。いや、僕が遅すぎるのか?


 僕は、酸素が徐々に足りなくなる脳で二人の距離が開いていく理由を探ったが、結論として彼女が速いことと僕が遅いことの両方の要因が弾き出された。


 そうだ、彼女はプロの陸上選手だぞ。いくらオワコンになったと言っても、一般人の僕が走りで勝てるわけがない。ぐんぐん先を行く彼女の今の姿は、僕が高校の時に県予選で見た彼女の圧倒的な走りを思い出させた。あの時、他の選手から見たひかりはこんな風に絶望的だったのだろうか。


 もつれにもつれた足は、ついに言うことを聞かなくなり、僕の身体を地面へと投げ出した。僕はあまりの痛みに小さくうめき声を漏らした。体を倒したまま地面を見つめていた。前を向いたとしても、彼女の姿はもうないだろう。


 遠ざかっていく足音……。ふと、その音が途絶えた。もういなくなってしまったのだろうか。そう思っていると、また足音が聞こえ始めた。しかし、どうしたことか足音は次第に大きくなっていく。こつ、こつ、と、確実に僕と足音の距離は狭まっていく。


 足音が途絶えた。僕は顔を上げる。するとそこには、僕を神妙な顔つきで見下ろす中村ひかりの姿があった。


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