月にむら雲、花に風

水涸 木犀

  彼女は、村の大人たちから「とげつさま」と呼ばれていた。

 「とげつさま」が「兎月稲姫命トゲツイナヒメノミコト」の略称だと知ったのは、祠の横に建てられた小さな看板を読んだ、小学校四年生のとき。大昔に月からやってきて、村に雨を降らせ、日を照らし、秋に豊かな稲穂の実りをもたらしてくれる豊穣の女神さま。だが、僕にとっては神さまかどうかは関係ない。彼女は僕の子どものころの唯一の遊び相手で、そして初恋のひとだから。


 僕が生まれた小さな村は、子どもの遊び場所が限られている。小学校の校庭か、稲刈り後の田んぼ、あるいは大人の集まる公民館の中とその周り。「とげつさま」が祀られている祠の周りには、近づいてはいけないという習わしだった。


 「祠には本物の神さまがいらっしゃる。とげつさまの機嫌を損ねたら、うちの村はお米がとれなくなって、私たちの生活がしんどくなるんだよ」


 母は幼い僕に、なんども繰り返しそう言って聞かせた。そうはいっても、村生まれにもかかわらず、年の近い子どもたちとうまくなじめなかった僕には居場所がなかった。村のしきたりだ、嫁いだ者の務めだといって、母を責め、そして父を頼りないとなじる祖父母がいる実家。子どもたちの遊び場になっている数々の場所。どこにも腰を落ち着けることができなかった僕は、結局行くのを禁じられていた小さな祠へ足を向けた。


 祠は田んぼの中を突っ切って、道路の向かいの小山の上に建っている。外からはもっさりとした木々に覆われていて見えないけれど、五十三段ある階段を登り、忌み枝をきれいに刈り取った杉の木が作るアーチを通った先に、格子状に組まれた板がはめ込まれた、小ぶりな祠が姿を現す。小ぶりといっても、僕の身長よりは高さがあるし、大人五人が横に並んで入れるくらいの幅はあった。もっとも、祠の正面に開けられた扉はずっと小さくて、子どもだったころの僕でも入るのは難しかったけれど。

 ほこりも、落ち葉もついていないから手入れされているんだろうなというのはわかる。でも、僕が行くときはいつも、祠には誰もいなかった。それをいいことに、ぼくは杉の木を背もたれにして学校の宿題をしたり、なんで村の子どもたちとなじめないのかをぼんやり考えたりしていた。


 あれは確か小学校三年生の七月、もうすぐ夏休みに入るくらいの時期だったと思う。家から持ってきた水筒の中身が残り四センチくらいになって、そろそろ帰ろうか、でも気が進まないという葛藤をくり返していた。

 そのとき、祠の後ろで何かが動いた。いままでひとけなんてなかったから、何かが動く気配がするなんて考えもしていなくて、僕は身体を丸めたまま動くことができなかった。動いたものの正体が村の大人だったら、きっとひどく怒られて追い返されて、二度と祠に行くことはできなかっただろう。

 でも、祠の後ろからひょっこり顔を出したのは小さな女の子だった。当時の僕よりも小さかったから、百センチくらいだろう。最初目が合ったときは、わたがしみたいだ、と思った。ふんわりしていて、うっかり触ったらとけてしまうんじゃないかというくらい不確かで、それでいて見ていたら自然と笑顔になれる、そんな子だった。


 彼女は僕と目が合うと、猫のような短くて白い耳を伏せて、うさぎのような長い耳をぴんと立てる。でも、じっと見てくるだけで何も言ってこないから、だんまり比べに負けた僕から声をかけたんだ。


「ここの子?」


 出てきた言葉は今思うと要領を得ないものだったけれど、彼女は小さく首を傾げた。長いほうの耳がくに、と少しかたむく。


「元々はこの地の者ではありません。しかし、少なくともあなたたちの暦で、数百年以上の間留まっています」


 彼女の言葉は耳の中で心地よく響き、川のせせらぎの音を聞いたみたいだった。だからもっと、その口から発せられる音を聞きたいと思った。


「僕、学校が終わったらいつも来ているけれど、いいかな? あと、少しお話をしてもいい?」


 いつもの僕なら絶対に言わないお願いをしたのは、きっとそのせいだ。四つの耳をぜんぶ正面に向けた彼女は、小さく頷いた。


「周りに誰も人がいないときであれば、近くに行って話をしましょう」

「ありがとう!」 


 その日は彼女に会えたうれしさで、家に行く気の重さも晴れたから、次会ったときに話をする約束をして祠を後にした。もちろん祠に行ったことも、猫の耳とうさぎの耳が生えた女の子に会ったことも秘密だ。


・・・


 彼女に会ってから、僕は祠に行くのが楽しみになった。今までは行き場のない僕の消極的選択肢だったのが、「彼女と会って話をする」という目的ができたのだ。宿題を祠近くの杉の木の足元でするのは変わらなかったけれど、それよりも、祠にもう少し近いコナラの木の裏で、彼女と話をすることのほうが増えた。


 話の中で、僕は彼女が「とげつさま」であることを知ったのだ。確かに、彼女は僕と同い年くらいに見えたけれど、人間の女の子には見えなかったから納得できる。それよりも、「とげつさま」に勝手に話しかけて大丈夫なのだろうかと、いまさらながら心配になってしまう。僕の不安を読み取ったみたいに、彼女は言った。


「地球におけるわたしの存在は、人間の信仰心によって保たれています。この星でわたしの存在を信じる者がいなくなったとき、わたしの姿は消える。ですからむしろ、わたしの存在を信じ、のみならず実りをもたらす存在であると信じている人間が多ければ多いほど、村のためになるのですよ。話しをしてはいけない、ということはないのです」

「つまり、僕がとげつさまと話をするだけ、とげつさまは強くなるってこと?」

「そうとも、言えますね」

「じゃあ、たくさん話をしよう!」


 僕の子どもっぽい提案に、彼女は大きな目を下に向けてほほ笑んだ。その笑みは、今まで僕が見たどんなひとの表情よりもきれいで、じっと見つめてしまった。


「お話しするのでしょう?」


 首をかしげるのと同時に、うさぎのような長い耳がかたむくのもかわいい。きっと僕の顔は真っ赤になっていたと思う。それでも、僕は彼女に会うためなら、恥ずかしいなんて気持ちはおしこめることができた。そもそも祠には、僕と彼女しかいないのだ。恥ずかしがることなんて何もない。


 川のせせらぎのような声を聴きながら、宿題をしたり彼女と他愛もない話をしたりした日々は、僕の心のいちばんきれいなところに、今でもそっとしまってある。

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