第15話 束の間の休息
星夜は既に、高島様が近日中にうちかD社で契約するだろうと考えていた。自分がすべき事は、高島様にご提案しているプラン内容の更なる上積み。金額の交渉や家賃の交渉等、土橋支社長にも相談を入れながら着々と準備を進めていた。
そして、税理士先生にもお声掛けをしていた。最終的にお父様を説得する際に、専門の人からの助言は必要になる事が多い。
『何を言われるか』より『誰に言われるか』が重要な事は沢山ある。おそらく次の商談が極めて大事になってくる。
ずっとこの高島様の事を最優先に考えていた星夜は、ふと一度、頭も心もリセットさせようと思った。ここのところずっとお昼もコンビニのおにぎりでサクッと済ませる事が多かった。
東京には美味しいものも、おしゃれなカフェも沢山ある。今日はちゃんと休憩をとろうと思った。
下北沢にあるハンバーガー屋さんに行き、ランチはサクッと済ませて、近くのカフェでボーッとしようと思った。ここのハンバーガー屋さんは以前にも家族で来た事があるが、バンズもパティもソースも全てが最高。正に至高のハンバーガーだ。
お腹が満たされた星夜はその後カフェへ。
アイスコーヒーを注文し、10分程何も考えずに外を眺めていた。人の流れをただぼんやり眺めていると無心になる。穏やかな時間がほんのひととき、星夜を別の世界に運んでくれた。
星夜は実は、音楽が好きだ。好きだからと言ってギターやピアノの様な楽器に触れた事もない。ただ音楽無しでは生きていけない。特に深い話がある訳でもないが、どんな時も自分を励ましてくれた最たる物に音楽があった。
元々ロックが好きで、10代はパンクロックにハマり、20代からは当時流行っていた事もあり、R&B、ソウル、ジャズ、エレクトロ、ポップス等、割と幅広く色々な国の音楽に触れた。
30代ぐらいからは、また邦楽を聞き出したりもした。音楽には不思議な力がある。単に喜怒哀楽に分けるだけでは無く、その時の自分の感情に寄り添ってくれる曲もあれば、ふと背中を押してくれる曲、逆に少し立ち止まらせてくれる曲。
『音楽に救われた』と言う人も多いだろう。
そんな星夜の脳内でこの時流れてきたのは、
昭和の名曲『川の流れのように』だ。
『知らず知らず歩いてきた細く長いこの道。
振り返れば遥か遠く故郷が見える。』
こんな出だしだったと思う。後で調べた事だが、この曲は1989年に発売された曲で、
当時既に病魔に侵されていた【美空ひばり】
さんは、本来は違う曲がシングルで発売される予定だったのを、自らの希望でこの曲に変えて貰ったそうだ。
因みに作詞は【秋元康】さん。
数多くの名曲を世に生み出した作詞家でもあり、近年でいえば【AKB48】や【乃木坂46】等を国民的アイドルにのし上げた名プロデューサーだ。この曲の詞を読んだ時、美空ひばりさんは、自らの人生と照らし合わせ引き込まれたそうだ。そして、これがあのレジェンドの最後の曲となった。正に命を削って世に残してくれた名曲だったのだ。
汗水垂らして懸命に没頭する姿は、自然と周りを巻き込んでいくものだろう。納得するものを作りたい。この人の力になる為に、自分に出来る事を捧げたい。なんでもそうだと思うが、
何かを生み出す為に同じ志を持った人間がそこに集う。そうやってこれまでにも素晴らしいものを、同じ日本人の先輩達は残してくれたのだろう。
この時、この曲が聴こえてきて、星夜の五感は研ぎ澄まされていた。ここ迄の道程はとにかく険しかった。遠く離れたこの地に来て、今は助け合える仲間も増えて来た。そして、何か変わった事をするのでは無く、自分を信じ、仲間を信じて、当たり前に出来る事に没頭しよう。そう考えた。後は覚悟を持つ事だけだ。
この場合の覚悟を持つとは、この高島さんがもしだめであれば、責任をとって降格や異動願いを出すと言う安易な事ではない。
誠心誠意で高島様に尽くし、D社に絶対に勝つ事。その覚悟だ。
良い意味で肩の力が抜けて少し吹っ切れた星夜は、営業所に戻り雑務をこなしていた。そんな矢先、今根課長から連絡があった。
D社が今度は3人で高島様の家に入っていったという事だった。今根課長の声は焦りを感じている声だった。星夜は淡々と、
「そうですか。大丈夫です。夜にご長女のところに顔を出して来てください。最近D社は来ているか、夫婦や親子間で何か変わった事はあったかを会話の中で聞き出して来てください。それから、今度の【土曜日の夜】にご長女夫婦にアポをとってきてください。今日はそのまま直帰してくださいね。」
そう伝えて電話を切った。
他社競合になった時は『レスポンス』が大切だが、もうひとつ、あまり他社を意識しすぎるより、仲間との関係性を構築する事がより大切だ。先ずは身内から。仲間を知り、信頼し、協力する事。結局これに尽きると星夜はこれまでの経験から学んだのだ。
先程、今根課長には、高島様に対して3つの聞き出しをお願いした。星夜は今根課長を信頼している。彼ならやってくると知っているのだ。
出来る事と出来ない事の見極めをちゃんとする事は信頼を築く事に繋がると思う。
その日の夜、今根課長から再度連絡があった。
D社はご長女達ではなく、お父様単独に提案している事、親子間での話し合いは特に進展無い事。そして、夫婦間でも今のところやるならうちでという気持ちに変わりはない事。土曜日の夜のアポもしっかり取ってきてくれた。この日は木曜日。土曜日迄は後2日。D社はおそらく猛攻を仕掛けてくるだろう。
この2日でD社がお父様を説得し、強引に『契約日』を確定させる事。
その場合は、ご長女夫婦としても妥協して納得せざるを得なくなる。
これが星夜が描いた『最悪のパターン』だ。
D社は複数人でお父様1人を口説こうとしている。彼らも必死だ。どんな人でも1人で3人の男性から圧力をかけられれば弱気になる。
しかし、それがお父様を説得する為の武器になる事も確かなのだ。何かを得たければリスクは負わなければいけない。やはり次の土曜日は最も重要な局面になる事は間違いない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます